LOVEを叫ぼう
恋に恋する気持ちから
愛を愛する気持ちに変わった時
言葉の重みが自分を苦しめてると思うんだ
無名の個人アーティストが、Spotify公式プレイリストに入るためにやったこと。というnoteの記事が出てきてふと初心に立ち返ることがあった。
最近、周りで音楽を聴いている人が少ない。
中学校や高校で僕らの会話の始まりは
「最近ハマってる曲ある?」
の類のものだったと思う。
それを聴いて、教えてくれたものを聴いて、やれこれはいいだのこれは良くないだのたくさん議論して生きながら、オススメのアーティスト、自分の根幹に根付いた楽曲、人生を変える一曲を膨大に探しまくった気がする。
最近、そういうことが全然ない。
今でも一ヶ月に少なくても30枚アルバムは聞く。一曲あたり5〜20曲入っているから10曲と平均しても300曲は一ヶ月に聴いている計算になる。
この曲は!っていうものにチェックを入れているが、そのチェックはほとんど入らない。入っても月に10曲がいいところではないだろうか。それでもこの音楽の探検を止めることはできそうにない。
知り合いや友人、よく話をする職場の人に最近よかった曲やアーティストありますか?と聴いても聴いてない、探してない。という人が多い。
それが斎藤耕太郎さんの記事でわかった気がする。
好きなものを好きと言ってそれを否定されるのが怖いんだと思う。
すっかりグラミー賞の発表から半年以上が経ち、唯一聴いていなかったビョークのUtopiaを今朝聞いた。正直やはりビョークはあまり得意ではない。
音や音像、クオリティや歌い方は流石の一言に尽きるが、やはりジャンルがまだ若造の僕には合わないのかもしれないし、元々こういうのが苦手なのかもしれない。Kotaro SaitoのMuseという曲は最高だ。これは好きと言える。好きもLikeの方ではく、Loveと言える。
元来ダンスのようなインストは自分の畑だと信じて疑わないのでこの方の曲は好感が持てる。
しかしビョークはグラミー賞を取っている。
最近テレビで言ってたから、ラジオで言ってたから、あのアーティストだからという第三者の意見、目線で自分たちの中の価値基準をぶらしているものが多いと思う。プレイリストに入っている曲は正義で、入ってなければその曲はダメで、みたいな。
昔は他人に何と言われようがゆらゆら帝国は最高にロックだったし、志村正彦が死ぬ前のフジファブリックは最高にエモかった。
けれど最近は、大人になった今では、その「好き」の一言が、自分の立場を殺めてさえしまっている。
LOVEを叫ぼうじゃないか。
「僕はこの曲が大好きです。」
言おうじゃないか。音楽だけじゃない、絵だって、映画だって、なんだって。そこに壁はないんだし、誰にも根幹の否定はできない。
また恋に恋する気持ちでたくさんのLOVEを言おう。売れてない音楽が好きだからお前の曲は売れないんだ、独特な絵が好きだから、お前の絵は独特で使いにくい。
言わせておけ。
誰かは共感してくれる。誰かは愛を増幅させてくれる。
LOVE & PEACEじゃないか。
Spotifyとかのプレイリストで僕も新しい音楽を発見することができる。だからそれ自体が悪いと言いたいわけではない。入った曲はどれも素晴らしいし、そのおかげで斎藤耕太郎さんの曲が人気になっていくべきだと僕も純粋に思う。
けどそれだけではなくて、ふとそのアルバムの曲を全部聞いたりして、もっとたくさんの埋もれちゃっているいいものにもLOVEを送ってほしいな、と。
ネガティブな意見や発言をするくらいならば僕は愛を叫ぶ。
なんか久々に想いを綴ったらなんだか痛い文章になってしまった気がするけど、これはこれでたまにはありなのかな。
さて、今日はもう寝ましょう。明日また新しい音楽と出会うことを期待して。
でわでわ
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