ドキュメンタリーの政治性
NHKの「ドキュメント72時間」を見た。今回は大阪の有名なスーパー・スーパー玉出に3日間密着。午前5時過ぎに入店してきた68歳の清掃員の人。前職で過酷な働き方をして、次第に家族との間に溝ができていく。
全国のお客さんのところへ機械を納めて
(家にいるのは)月に2日か3日
例えば青森で仕事終わりましたよね
あーあした帰れると思ったら
夜に会社から電話かかってきて
「そのまま沖縄へ飛べ」とかね
(中略)
そういうのがずっと続くと
もう(ストレスで)胃がボロボロになるの
事実 胃がんになりましたもん
一番下の子どもが大学を卒業すると、一人で家を出てしまう。その人は「自分のごほうび」としてビール2缶と半額のお刺身を買う。
僕は今がベストなんです
自由で 寂しさも感じない
これをとられたくない
この手の番組を自分は割と見てしまう。もちろん、この番組を見て「生活者たちの生の多様さ」などというナイーブな感想は持たない。電波に乗せる段階で捨象された生活がたくさんあることはまずもって見逃せないし、他にも無数の危うさがある。たとえば取材されたが電波に乗らなかったたくさんの人たちがいる。この類の番組は僕たちを「わかった気」にさせてしまう。それでも電波に乗ったさまざまな人たちの話を聞いていると、個別的な生活の状況の多様さなどといったものよりむしろ、人によってあまりにも語彙の使用や息継ぎ、表情が違うことに驚かされる。もちろんそこに優劣はない。ただ、そのような語り方のバリエーションが、語る内容よりも雄弁に、なにごとかを物語ることがあることに驚く。ここにも、言葉の使用のちがいが階層や性別などの構造的な分断や格差を反映しているという観点を導入する必要がある。複数の人の語りを映しだすとき、メディアがそのような構造をあまりにも直截的で無神経に可視化しているだけになってしまっている場合がある。語り方まで語りの範疇に含めてしまえば、検閲もより恣意的に運用できてしまう。だから、「語り方が何事かを物語ることがある」という言説自体、ある意味での政治的な加害性を帯びうる。しかし、それでもなおやはり、修正や歪曲を、一回性の生がビビッドに免れるのに、ここでは言葉の使用が大きな働きをしている。「これをとられたくない」と言う。本当に今がベストかどうか、自由かどうかはわからない。そうとでも言ってみなければやりきれない、ということかもしれない。でも「これをとられたくない」というつぶやきのような一言は文字通りわたしたちに届く。その届き方はあるいは政治的な正しさを部分的に欠いたものかもしれない。たとえそうだとしても、カートの中身は多くを失った後のよすがなのだということを、視聴して感じ取ることができる。(できてしまう。)
感じとるや否や、その人を映したシーンは切り替わって、別の人が映る。全員が全員、複雑な状況を抱えているわけではない。自分がこの手の番組に見入ってしまうのは、案外、シーン間の切り替わりの速さや、それぞれのシーンが消化不良気味にぶつ切りにされることに支えられているのかもしれない。