見出し画像

第二等労働者の娯楽(後)

 ドミトーリイは棚からCDをいくつか抜き出して、ジャケを眺めてみた。何枚かはケースを開けられるものもあるから、中の歌詞カードを取り出してクレジットを確認してみる。ただ、もうどれも見覚えあるCDばかりだし、ほとんど惰性といえる行為でしかない。それでも労働だけの単純な毎日を繰り返すドミトーリイにとっては大きな喜びを得る貴重な機会だった。

 背を曲げてじっくりと、ドミトーリイは棚に詰まったCDにの一枚一枚に触れていき、愛でるようにして辿っていったが、その指が止まった。棚の「ら」の場所には大きな空きがあり、ドミトーリイは思わず息をのんだ。

 ドミトーリイは店に足繁く通っていたけれど、棚に変化があったのは初めてのことで、目の前の光景は信じられないものだった。
『誰かがCDを買っていったとでもいうのだろうか……。いや、そんなはずはない。こんなものを買ったからってなんになるというんだ』
 ドミトーリイは思い返してみる。『それにしても、「ら」の場所には何のCDがあったのだろう? 「さ」とか「ま」のあたりは念入りに見ていたけれど……』
 棚の他の箇所であればいつでもCDの並びを思い出せるのに、どうしてもそのぽっかりと空いた場所だけは記憶から抜け落ちてしまっていた。その不自然な空間を凝視していると、ドミトーリイには二度と埋められない、永遠の消失のようにも思えてくるのだった。

「そんなばかな! いったい何てこった? まさか、そんなはずは」
 その時、サーシャの苦しげなうめき声が棚の向こう側から聞こえてきた。
「ああ、なんてことになっているんだ。池波正太郎が無くなって……」
 どうやら、CD棚だけでなく本の方でも異変があったらしい。
「それがどうしました?」甲高い耳障りな声が答えた。外套を着ていた男だろう。
「少し前に棚の基準が変わったとか聞きましたが、その影響ではないですか?」
「そんな、ばかげた話だ! 読みかけだった『真田太平記』の続きはどうすればいいと言うんだ!」
 どんと鈍い音がして本棚を殴る音が聞こえてくる。

「誰がこんな愚弄するような真似をしているというのだ! 困った、実に困った! どうすればいいんだろう? ほんとに俺はこのまま破滅するしかない!」
「なに、本はまだ他の場所にもありますよ」
「あるもんか、わしの居場所はここの棚にしかないんだ!」
「あちらの方は見たことないんですか?」
「まさか、一等の?」
「ええ、私はその権利がありますから。……わかりますよ、身分が違うのは。しかし付き添いがあれば問題ないはずでしょう? もしよければですが、あなたを案内することもできますよ」
「ああ……、そんなまさか、本当にいいのか?」
「構いませんとも」
 二人分の足音が遠ざかっていった。一つはかつかつと靴音を響かせながら、もう一つはおずおずと。

 ドミトーリイが棚の向こうに様子を伺いにいくと、第一等労働者用のコーナーには外套を着た男とサーシャが並んで本を手に取っていた。今まで読むことすら叶わなかった本の数々、村上龍だとか石田衣良にサーシャの目はきらきらと輝いている。
 第一等労働者用の棚にはCDも置いてある。ドミトーリイはこのかつてない機会を逃さぬよう、外套の男に声を掛けてみようと一歩踏み出した。「やあ、初めまして、もしよろしければ私もご一緒させてはもらえませんかね?」
 たったそれだけで、ずっと立ち入れなかった世界が垣間見える。

 その時ドアが開き、外から冷たい空気と共に見回りの警察が入ってきた。ドミトーリイは本能的に踵を返して、元いた第二等棚のほうへと小走りで急いだ。

 警察はドミトーリイの後ろ姿を目で追いながら「おい」と、カウンターを蹴飛ばして、奥で眠りこけているイヴァーノフを起こした。
「やあ、これはこれは!」イヴァーノフはあわてて立ち上がったが、立ちくらみをしてふらつき椅子の背を掴んだ。
「あまり好ましいことではないな、イヴァーノフ。そのような勤務態度では、報告を上げなくてはならなくなる」
 何か言い訳を考えようとしても言葉が出てこず、直立不動のまま固まってしまったイヴァーノフから視線を逸らすと、警官は第一等労働者用コーナーに人がいることに気づき、少し驚いたような表情をした。

「これはめずらしいですな」
 警官は外套の男とサーシャに近づき、声をかける。
「この棚で客を見かけたのは初めてですよ、なにせ第一等の方々が来るような場所じゃありませんからな」
 サーシャは手に取った本を夢中で読んでいたから警察に気づいておらず、顔をあげてぎょっとした。

「私は一等ですよ、ほら」外套の男は警官に軽く会釈をした。
「ああ、アレクセイ・アンドレーイチ・ミローナフさんでしたか! この前は楽しい宴でしたな! 今度はうちの家内もご一緒したいと言っておりましたから、また来月にでも…。それでそちらは?」
 警官はサーシャを一瞥した。
「さあ、私は存じませんね」サーシャに冷たい視線を送り、アレクセイ・アンドレーイチは返答した。
「そんな!」振り向いて、サーシャが叫んだ。
「店の中で手荒な真似はしたくないですからな。詳しくは然るべき場所で聞くとしましょうか」
 警官がサーシャの腕を掴んだはずみに、サーシャが読んでいた宮本輝『螢川』が床に落ちた。警官は本に見向きもせず強引に、店の外へ出るようサーシャを促す。
「痛い! わしはその男に連れられてきただけだ! 馬鹿な真似を!」
「手荒な真似はしたくないんだ、歩け!」
 警官はサーシャの老いた背中を小突いて、店の外へと追いやっていく。
「殺される、殺される! 俺を見殺しにしてくれるな!」
 サーシャの叫びは、店の扉が閉まってからもしばらくは聞こえていたが、すぐに遠ざかっていった。

 アレクセイ・アンドレーイチ・ミローナフは床に落ちた『螢川』を興味がなさそうに足で蹴飛ばしてから、CDコーナーへ顔を出し、様子をうかがっていたドミトーリイを見つけてにやりと笑った。
「おたがい、娯楽を享受するのに精が出ますな」
「娯楽だと?」
「私はこうして、普段関わることのない階級の人たちと交流するのを何よりの楽しみにしているんです」
「我々の生活を台無しにしているだけじゃないか!」
「それは見方の違いというものですよ。私はただ、毎日の生活に飽きていて刺激を求めているだけで——その点ではあなたと同じでしょう」
 アレクセイ・アンドレーイチ・ミローナフは棚のCDを興味なさげに見渡し、
「それでは、またお会いできるといいですね」
 そう言い残して悠々と立ち去っていった。(終)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?