西遊記どの訳が好きか―空三で読み解こう
さあ、みんなっ。始めるよっ。
五行山に閉じ込められていた悟空が三蔵に助けられて、三蔵の弟子としてかいがいしく世話を焼きはじめる序盤からいろんな訳の違いを楽しみながら読み解いていきたいと思います。
あらあら、わくわくしますね。
三蔵の弟子になったものの、襲ってきた盗賊を皆殺しにしてしまい三蔵から叱られたことで、気の短い悟空は三蔵を見限って筋斗雲で飛び去ってしまいます。
しかし、悟空はすぐに思い直して三蔵の元にすぐ戻ってきます。ちなみに西遊記ファンなら自明のこととは思いますが、緊箍児は悟空が戻ってきてからその頭に嵌められる展開なので、彼が戻ってきたのは決して緊箍呪が怖かったせいではないことは申し添えておきます。
悟空の世話焼きすぎるがゆえに、面倒事を背負い込みがちな性分に注目です。乱暴者である噂ばかりが独り歩きしていますが、原典の悟空はとても面倒見が良いことを強調しておきたいと思います。
(さらに彼はさまざまな能力がバリ高いので、面倒事をいくら背負い込んでも本人はそんなに負担感のないスパダリ体質)
まだまだ序盤は三蔵のダメダメさ加減に慣れてない悟空のイライラっぷりが可愛いのですが、それぞれの訳でどんな風に書かれているのか比べてみよう。
今回は
①岩波文庫版 小野忍訳「西遊記」
2巻(1977年)
手元の資料は1987年の第10版
②平凡社版 太田辰夫・鳥居久靖訳
「西遊記上」 (1972年)
③福音館書店版 君島久子訳
「西遊記上」(1975年)
手元の資料は2004年の文庫版
の三冊を取り上げて、味わっていこうと思っています。
(①は明の時代の本「世徳堂本西遊記」、「李卓悟先生批評西遊記」の完訳本、②は明の時代の本をダイジェストにした清の時代の本「西遊真詮」の完訳本、③は一部のエピソードが未収録の部分訳本です。)
蛇盤山鷹愁澗で白馬を龍に食われてしまったシーン
①ではこんな感じです。
「だめなおかただな」という敬語含みの悪口が、弟子である悟空の抑えきれないイラつきを表していて最高です。
同じシーンを②では
三蔵の「どうしようもないよ」の「よ」の語尾のかわいらしさがたまりません。
「馬を取り返してきたらいいんでしょう」というキレ気味の確認が弟子にできる最大限の不服の表示方法という感じ。でもそれでも収まらずに、最終的には坊主の三蔵に「白髪頭になりなされ」というちょっと的外れな嫌味まで言っているところが可愛い。
さて、③では
三蔵は「行こうというのか」「ではないか」と「か」攻めで、無茶を言っているのは自分なのにちょっと偉そうな態度にでている自己中心ぶりがいいですね。この悟空はちょっとオトナ目線で、どうどうと三蔵をいなしてる感もありますが、結局は三蔵のわがままにつきあいきれずすぐに匙を投げているところから師弟のまだお互いに慣れていない距離感を感じられます。
同じシーンでもそれぞれの訳によってスタンスが少し違うのが趣き深いと思いませんか。もうお前は原典に当たって自分で解釈しろ、という声が聞こえてきそうですが、残念ながら私は中国語を読むことができません。
でも三つの訳を並べて読むことで、おそらく原文はこんな感じなんだろうなとそこはかとなく感じられる原文臭がありませんかね。ありますよね。
さて、話を進めましょう。
結局、馬を食ってしまった龍(しかもただの龍じゃなくて西海龍王の第三太子)を観音菩薩が白馬に変えてくれて、いざ出発という流れになります。悟空が白馬を連れてきた時の三蔵のリアクションもとぼけています。
全訳版①と②の描写はほとんど変わらないので①で代表させます。
③では
完訳本の①②には存在しない「悟空は、そののんきさにあきれ返った」という一文が良い仕事してます。
さて、馬も手に入ったし旅を再開しようとする一行ですが、まだ三蔵を心から師と認めたわけではない悟空は観音菩薩に駄々をこねます。
①では
ちょっと古くさい表現が昔話風で嫌味を感じさせません。
②では
悟空の村男風の語りがくせになりますね。
③では
少し現代風の表現になっている分、「くだらない坊さん」の一語がぐさっときませんか。唐では類まれなる高僧と称えられていた三蔵のことを、まだ悟空はただのおっかながりの凡人だとしか考えていません。
このようにして旅をしぶる悟空に、観音菩薩は柳を葉三本を悟空のうなじに付けて、にこ毛に変化させました。絶体絶命の時には守ってくれるという毛をもらい、悟空も初めて心から頭を下げて旅を続けるのでした。
次の難に遭うのは観音院の黒風洞なのですが、それまでは二か月ほど無事な旅が続いたんだそうです。
ちょっと待てぃ。二か月の詳細を教えてほしい。
なぜかといえば、次のエピソードではすでに、悟空が三蔵のことを師として非常に大事にし始めているからです。この二人きりの二か月の間で何があったんですかっ。二人の関係を縮める出来事がなんかしらあったはずなんです。しかも季節は冬ですよ。
お互いに親に縁のない出自を語りあって幼いころの孤独感を分かち合いながら、寒さに身を寄せ合う夜があったんですか。温かいお斎を悟空が運んでくるまで、身をかがませて、まだかまだかと一人寒さに耐えていた三蔵が、「お師匠様、戻りましたよ」と湯気の立つ鉢を抱えてきた悟空に寒さでこわごわになった頬を緩めた日があったんですか。このひと冬の間にぐっと距離が縮まった転機があったはずなんです。ちょっとその辺詳しく教えてくださいよ。
でも西遊記は基本的には三蔵の遭う「難」を描く話なので何も起こらずに過ごした日々は語られないんですよね。自己補完で妄想するしかねえ。
書きました。
さてさて、
観音院という寺院に一晩お世話になる事になった三蔵と悟空です。強欲な老僧のせいで、三蔵はぐっすりと眠っている間に建物に火を点けられ焼き殺されそうになります。
①では
②では
③はシンプルです。
正直、この辺りは説明台詞をどの程度入れるかくらいの違いしかないですが、でもどの悟空も師匠の教えを汲んでちゃんと人殺しを避けようとしているという点が大きなポイントです。
悟空はこれまで人も妖怪も天界の住人も構わずに殺しまくってます。花果山では猿の王様、天界でも怖い者なしだった猿が、初めて他者の言うことを聞くようになった瞬間です。釈迦如来によって五百年の間山の下に閉じ込められた孤独と絶望が、彼を変えたのだと考えられます。(本来の彼は派手好きで人なつこいので、孤独が嫌いでもある)
五百年の孤独を救ってくれた師匠に人殺しはいけないという新たな価値観を教えられ、(この時点では本気で悟空も師の教えが正しいと思ってはいなさそうではありますが)それでも師の教えを尊重しようという姿勢を見せていることは成長の一歩と言えます。
火事にはなったものの、悟空のおかげで三蔵と袈裟は焼かれませんでした。ただ、近くに住んでいた黒風洞に住む妖怪が火事場泥棒して袈裟を盗んでいってしまったため、翌朝それに気づいた悟空が取り返しに行きます。
その時も観音院の坊主たちに「師のお世話をくれぐれもきちんとするように」と言い含めてから出かけるところに、彼の几帳面さというか師への過保護感が表れていて、ニヤニヤします。
②と③ではカットされているのですが、①にだけ悟空が可愛いエピソードがあるので、ぜひ紹介させてください。
朝一番に黒風洞に乗り込み、妖怪と戦っていた悟空ですが、昼を過ぎて妖怪が「腹ごしらえしてからまた戦おう」と洞内に逃げ込んでしまったので、仕方なく一度観音院に戻ってきます。事の次第を報告し、三蔵には「袈裟のありかがわかりましたから必ず取り戻します」と安心させるくせに、一緒に喜ぶ坊主たちにはこう言って脅しますw
弟子が命がけで戦っているのに、お茶を三度飲み、朝食と昼食をきっちり出してもらう三蔵、めちゃくちゃ推せますよね。え?推せませんか?しかも、「師には安穏にしていてもらいたい」と弟子である悟空も心から望んでいる、その師弟関係の尊さ、ヤバないすか。
とりあえず、第一回はここで終了です。
何のためにこんなことするのかって?やりたいからだよ。
どの訳もそれぞれの魅力があって素敵だし、あますところなく空三の妄想含みの解釈を展開していけたらと思っています。(続くかどうかはわからない。)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?