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たぶん、祈るほど

前のアカウントのやつをお引っ越し。



 実家が幾つかあって、父のいる離島の方の家では、大晦日の昼と夜は“お祈り”をしてからご飯を食べるのがルールだった。父は真言宗の僧侶なのだ。とはいえいわゆる立派な寺院ではなく、子供部屋の隣と、玄関を入ってすぐの仏間に仏様がいるだけの普通の民家に住んでいた。そこにご飯の乗った御膳をお供えし、父が20分ほど何やら唱えたり指を曲げたりして、私たちは後ろでひたすら手を合わせる、それから仏様の御下がりを頂く、というシステムだ。
 私は仏教徒ではないけれど、小さい頃からグリム童話と仏典童話全集(信心深く慎ましければ勝ちのやつ)を並べて読んでいたから、真面目に取り組まなければ大変なことが起こる気がして、いつも熱心に手を合わせていた。

 数年前の年末、成人式のため久しぶりにそっちの実家に帰った。何も考えず紅白歌合戦を見ていると、「ほら」と父に声をかけられる。ご飯を食べるから、早く仏間に来て。
 その当たり前みたいな言い方が少しだけ苦しくて、私は今回、初めて“お祈り”をサボった。“お祈り”の間は父が振り向かないのをいいことに、正座しながらぼんやりとその後ろ姿を眺める。罰当たりだ、なんて言葉に怯えなくなったのは、最近のことだった。20年生きて擦れたんじゃなくて、私にとっての祈りの意味が変わっただけだ。

 彼の読経が熱を帯びるほど、作りたての御膳が冷める。メニューに細かいルールはない、普遍的な尊さの家庭料理だ。隣で目を閉じ手を合わせた母が欠伸をする。1階の消し忘れたテレビから、微かに「おっくせんまんっ、おっくせんまんっ♪」と歌声が聞こえる。
 突然、猛烈に悲しくなった。父が何を祈っても祈らなくても、きっと来年はやってくるだろう。この世界は楽しそうなまま、悲しそうなまま、きっと郷ひろみの胸騒ぎが止むこともないまま、淡々と続いていく。それなら、殊勝に手を合わせるより、寧ろブブゼラでも鳴らして彼の祈りを応援するべきなんじゃないか、とか。
空海さん推しの父に、家族と仏教どっちが大事なのと聞いたらどうなる? やったことはないけど、答えを知っている。どっちがどうとかじゃなくてね、と落ち着いた声で言うのだ。どちらがどうとか比べるものではなく、仏さんも、お父さんたちも、全部が繋がってるんだよ、と。少し切ない顔をして。ああ。面倒くさいから、ブブゼラはやめよう。日向坂46の、初紅白の晴れ舞台を見逃している。
 私はこんなにも悲しい気持ちで、父の祈りを一身に受けた菩薩様は相変わらずの微笑みを見せていた。

 ふと、数ヶ月前の母の言葉を思い出す。

 あなた はね。
 あなたは、本当はすごく怒ってるんだよ。家族や、周りに対して。
 でもそれは、小さい頃のあなたがすごく悲しんでるってことなんだ。
 だからね、祈るしかないの。あなたが自分のために祈るしか、お母さんや病院の薬じゃ、今のあなたをどうにもできないから。

 母の口は昔から、私が喋れないときに限って、本当によく動いた。

 鶴を折ればいいのだろうか。
 指を組めばいいのだろうか。
 神様を持たない私は、願うでも縋るでも喋るでもなく、ただ“祈る”ために、何をすればいいのだろう。
 愛に怯える人間は、祈る資格もないのか?そんな大仰な話がしたい訳じゃない。

 淀みない父の読経を聞きながら、私は本州を想像する。東京、大阪、奈良、鹿児島、どこでもいい、本州のどこかの土地を、ONE PIECEパンクハザード編のシノクニみたいな、あの紫色の、もくもくした気体が襲う。奴の名前はダイバーシティだ。シノクニと違って毒性を持ってたりはしないのだけど、あまりに得体がしれなくて、人々は必死に逃げ惑う。ダイバーシティが本州を覆う。人間を飲み込む。吐き出す。ダイバーシティに殺される。生かされる。その様を、宇宙から虚空蔵菩薩が見ている。オリオン座の隅っこにバランス良く腰かけて、母の作った煮物を食べながら。芯まで出汁の染みた大根を、お箸で割って、ひとくち。微笑んで、草刈政雄に似た渋くて良い声でぽつり呟くのだ。

「滋味豊か」

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