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二月二十六日

二月廿六日。朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり。午後二時頃歌川氏電話をかけ来り、〔 この間約四字抹消。以下行間補 〕 軍人 〔 以上補 〕 警視庁を襲び同時に朝日新聞社日~新聞社等を襲撃したり。各省大臣官舎及三井邸宅等には兵士出動して護衛をなす。ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず。余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞るのみ。市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とをおそれ門を出でず。風呂焚きて浴す。九時頃新聞号外出づ。岡田斎藤殺され高橋重傷鈴木侍従長また重傷せし由。十時過雪やむ。

永井荷風「断腸亭日乗」昭和十一年二月二十六日

歩兵第一連隊の栗原安秀中尉が機関銃隊の兵約三百名に非常呼集を行ったのは、二十六日午前三時三十分ごろであった。…丹生誠忠中尉は栗原の機関銃隊より三十分早く第十一中隊の兵全員に非常呼集をかけた。丹生は中隊長代理である。 ・・・歩兵第三連隊では安藤輝三大尉が、「私ノ中隊及機関銃隊四ケ分隊、機関銃四門、計二百四名ヲ指揮シ午前三時三十分二連隊ヲ出発」 ( 安藤調書 ) した。安藤の第六中隊の非常呼集は午前零時、舎前整列は三時ごろである。…近衛歩兵第三連隊の中橋基明中尉は、「二十六日午前四時二十分非常呼集ヲ以テ近歩三ノ七中隊全員二集合ヲ命ジ」 ( 中橋調書 ) ている。

陸軍大臣官邸を占拠する目的の丹生誠忠中尉の歩一部隊は、香田清貞大尉 ( 第一旅団副官 )、磯部浅一、村中孝次、竹嶋継夫中尉 ( 豊橋教導学校 )、山本又(予備少尉)らを加えた下士官兵約百七十名…午前四時二十分営門を出発して、栗原部隊の後尾から赤坂溜池を経て首相官邸の坂を上ったのだが、途上、首相官邸内から栗原隊の放つ銃声を聞いた。陸相官邸に着いてからのことは磯部の「行動記」に出ている。「香田、村中、二人して憲兵と折衝してゐる所へ、余 ( 磯部 ) は遅れて到着す。…香田、村中は国家の大事につき、陸軍大臣に会見がしたいと言つて、憲兵と押問答してゐる。…憲兵は、大臣に危害を加へる様なら私達を殺してからにして下さいと言ふ。そんな事をするのではない、国家の重大事だ、早く会ふ様に言つて来いと叱る。奥さんが出て来る、主人は風邪気味だからと断る。風邪でも是非会ひたい、時間をせん延すると情況は益々悪化すると申し込む。風邪ならたくさん着物を着て是非出て釆て会つて戴きたいと懇願切りであるが、なかなからちがあかぬ。…主力部隊は官邸表門に位置している。裏門も、道路も一切塞いでいる。陸軍省、参謀本部 ( この二つは一つの建物で隣合っている ) の各門には機関銃分隊、軽機関銃分隊を配置して歩哨線をかためている。

近歩三の中橋基明の部隊が 赤坂表町三丁目 ( 当時赤坂区 ) の高橋蔵相私邸の前に着いたのは午前五時ごろであった。…中橋が部下の第七中隊の下士官兵約百三十名を宮城の守衛隊控兵と、高橋邸襲撃を任務とする突入隊とに分け、控兵隊は中橋が今泉義道少尉に率いさせた。…中橋は表門から、中島は東門の塀を乗り越えて邸内に入った。判決文によれば、両名は邸内に侵入して内玄関の扉を被壊し、兵若干名を指揮して屋内に乱入し、高橋蔵相の所在を捜索し、奥二階十畳の間に臥床中の同人を発見すると、「中橋基明ハ掛蒲団ヲ撥ネ除ケ、天謙一叫ビッツ拳銃数弾ヲ発射シ」中島莞爾は軍刀で高橋の肩を斬りつけ、さらに右胸部を突き刺したとある。

松本清張「昭和史発掘」

阿佐ヶ谷将棋会の青柳瑞穂が田畑修一郎のことを、我慢ならない男だと言いだしたのは、 武田麟太郎や高見順等の「人民文庫」が刊行されるようになった頃である(中巻参照)。左翼文学が華々 しく見えていたが、軍部が頻りに政治に口出しするようになる時勢であった。…宮川君は泊って行くことにしたが、…すると玄関の土間に朝刊を入れる音がした。私がそれを取りに起きて再び横になると、花火を揚げるような音がした。いつも駅前マーケットで安売する日は、朝早く花火を揚げる連続音が聞えていた。「今日は早くからマーケットを明けるんだな」私は独りでそう言って、新聞を顔の上に拡げたきり寝てしまった。…風呂は混んでいなかったが、浴客の話し声が大きく響いていた。光明院の裏通りにいる渡辺さんが機関銃で襲撃されて、護衛の憲兵も殺されたと言う者がいた。憲兵は朝早く交替で、ちょうど今やって来たというところを殺されたという。渡辺さんの近所にある八百屋のお上が騒ぎで目をさまし、外に出て見ると陸軍中佐が機関銃を据えつけていた。「今日は早くから演習ですね」と言うと、「ばか。こら危いぞ、退け退け」とその中佐が叱った。( 中佐でなくて中尉だと言う者がいた )

井伏鱒二「荻窪風土記」

朝方、六時ごろでございましたでしょうか。私はもう起きておりましたが、突然、けたたましい銃声がきこえたのでございますよ。一体、なんだろうと私の家でも大さわぎになったのですが、私の夫は"兵隊が演習でもはじめたのだろう″といっておりました。そのうち、父の家の女中から電話があり、おびえた声で"奥さま、たいへんでございます″といってきたのです。電話室にも銃砲のタマがうちこまれているようで、受話器をとおして、その音がきこえてくるのでございます。…"ご主人さまがお亡くなりになりました″といつてまいりました。電話を受けたのは私でございますが、父の死を知った私の夫は、やにわにピストルを持って、外へとび出そうとするのでございます。…そして、兵隊たちが引きあげて行くのを見きわめてから、父の家にかけつけたのでございます。その間、ものの五分、長くて十分〔註・記録では三十分となっている〕ぐらいのものでございました。父の家にかけつけてみると、タマの跡と煙りがもうもうと狭い家の中に立ちこめておりました。

有馬頼義「二・二六暗殺の目撃者」

この事件以降、軍部に歯向うと殺される、という恐怖感が政府要職に就く者に広まっていく。

陸軍内の皇道派の影響を色濃く受けた青年将校らは「昭和維新・尊皇討奸」のスローガンの下、統制派の圧力に終に蹶起する。
蹶起趣意書では、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶で、ロンドン条約と教育総監更迭における統帥権干犯、三月事件の不逞、天皇機関説一派の学匪、共匪、大本教などの陰謀の事例をあげ、

「依然として反省することなく私権自欲に居って維新を阻止しているから、これらの奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭す」

と記されていた。

昭和天皇は一報から「賊軍」として敵意を顕にしている。
この時点でクーデターは成立しないことになり、また『朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ』『朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン』と激昂したと伝えられている。

まつりごととは清濁併せ呑む事とは誰の言葉だったか。
被災地の窮状を目の当たりにしても、相変わらず議場は政治資金の何たらである。
こういっては何だが、ほとんどの国民はそんなことに興味がないのではないだろうか。

池波正太郎の「剣客商売」で秋山小兵衛が「政事まつりごととは、汚れの中に真実まことを見出すものさ」と宣う場面がある。
とかく世間は綺麗事だけでは渡れない。

それならば、まことを見出す気概のある者、または見出す才のある者にまつりごとを任せたいというのは世迷言に聞こえるだろうか。

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