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冬(166回目)

目を覚ますと、もう11時近くになっていた。
やばいっ!なんでアラーム鳴らないん…
そう思って直ぐ気が付いた。
そうか、休みだ…
ぼくはベッドから手だけを伸ばしてテレビのリモコンを探し当てる。
カチャカチャとチャンネルを幾つか変えてスイッチを切る。
さっぶ…
ようやくベッドから出る決心をして、脱ぎっぱなしになっていたセーターをスエットシャツの上から被る。
やかんをコンロにかけて冷蔵庫を覗く。
ベーコンも卵も切れかけている。
食パンをトースターに入れコーヒーを淹れる。
冷ましながら一口。
電話が鳴る。

「起きた?」
うん
「スーパー寄るけど、何か要る物ある?」
えっと、ね

ぼくは卵とベーコン、牛乳を頼んだ。
電話を切って、トーストとベーコンエッグで朝ごはん兼昼ごはんにする。
食べ終わった頃に玄関のチャイムが鳴った。

「寒いね」
うん

部屋が狭くなるし、入ったら動けなくなるのでコタツを置いていない。
彼女は部屋に入るなり、オイルヒーターのスイッチを入れた。

「こういうのって、直ぐ暖まらないんだよね」
部屋が狭いから直ぐだよ

ぼくは食器を洗いながら湯を沸かして、彼女にコーヒーを淹れた。
彼女は冷蔵庫に買ってきた物をしまっている。

昼ごはんは?
「まだ」
何か食べる?
「うん」
って言っても…なぁ…
「何でもいいよ?」
うん

ほとんど空の冷蔵庫の中を見ながら、ぼくは可能な組み合わせを考えていた。
結局捻り出したメニューは「チャーハン」だった。

「偉いよね」
何が?
「なにもなくてもちゃんと作るからさ」
そりゃ作るよ、食べなきゃ機嫌悪くなるだろ?
「うむ」

買ってきてもらったベーコンと卵でチャーハンを作り終えると、ぼくは煙草を吸いにベランダに出た。
昔からそうなのだけど自分で煙草を吸う癖に残り香が大嫌いなのだ。
自分の部屋なのだから遠慮する必要はないし、彼女も別段嫌がっていた訳ではないのだけど、そんな理由から外で煙草を吸うのが習慣になっていた。

ベランダから部屋の中を見ると、彼女はテレビを見ながらぼくの作ったチャーハンを食べていた。

もう何十年も昔の事なのに、不思議とこの場面をはっきりと覚えている。
二人がけのソファの前に膝を崩して座り、小さなテーブルの上に肘をついて、目の前のテレビを見ながらチャーハンを食べている横顔。
ジーンズにペイルブルーのアンサンブル。

どこか出掛けるの?
「うん」
どこ?
「自由が丘だけど。一緒に行く?」
いいよ

彼女はだいたいそうなのだけど、どこかに行くついでにぼくの部屋の様子を週に一度見に来る。
ちゃんと生きているか。
食べることはともかく、洗濯や買い物はできているか。
平日は忙殺されているから、休みの日は引っ張りまわしたくないと言っていた。
なんともよくできた人だった。
外は曇っていて、黒っぽい雲が引切りなしに流れていた。
ぼくは彼女が洗い物をしている間にジーンズを履いて、スエットの上から被っていたセーターを1番マシなシャツの上に着直した。

その様子を眺めていた彼女が言う。

「ねえ」
うん?
「もしも私がね?」
うん
「着る服とかに注文つけたりするのって嫌?」
うん?変?これ
「ううん、変じゃないよ」
嫌じゃないよ
「そっか」
うん

よほど酷かったに違いない。

電車で二駅ほど行くと自由が丘に着く。
マリークレール通りを渡って緑道沿いにある雑貨店で買い物をして、アンセーニュ・ダングルでコーヒーを飲んで一息ついた後、あちこちとひやかす。
そろそろ帰ろうか、と駅を目指す頃、雪が舞い始めた。

「雪だ」
雪だ
「積もるかな」
どうだろう
「寒いから今夜は鍋料理食べたいな」
いいね

あまりにもはっきりしていて、つい最近のことのように思うのだけど、もう30年以上昔の話だ。
あまりにもはっきりしているから、ぼくは時々それが何かを暗示しているんじゃないかと思ったりする。
でもそんなことはない。
記憶は記憶で、ただもうひたすらに記憶でしかない。

とある冬の日の話。

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