「名前」の続き
この記事の続き。
独り暮らしの荷物は思ったよりも少なかった。
最後の段ボールの封をしてしまうと、意外に広い部屋だったのだなと感じる。
引越し自体は明日なのだが、荷造りを始めて数時間で全部終わってしまった。
何時頃だろう、とテレビの方を見て(ああ、そうか。時計も片付けたのだった)と思い直す。
腕時計を見ると18時を少し回った所だった。
腹が減っていたのだけど、炊飯器も鍋もフライパンも全部片付けてしまったので、外に食べに行くしかなかった。
アパートを出ると、商店街はいつもの夕方の喧騒だった。
春先のまだ冷たい風が時折吹いて、それに乗って様々な店から様々な匂いが漂ってきた。
ああ、今日でこの風景も見納めなんだな。
そんなメランコリーに浸ろうとする自分を嘲笑する自分に気付く。
半ば自虐するような投げやりな気持ちが頭をもたげた。
僕は「都落ち」をする事になった。
体調を崩したのを切欠にして心を病んだのだ。
初めは胃をやられて血を吐いた。暫く体を休めた方がいいと医師に言われて、一週間ほど休んだのがきっかけだった。
人に会うと動悸がするようになった。変だな、と思っていたのが、次第にそれが激しくなり、過呼吸に陥るようになった。
一人で塞ぎ込む事が多くなり、遂に部屋を出た途端に冷汗が出て、眩暈を起こすまでになって、仕事どころではなくなってしまったのだ。
仕事を続ける事が出来なくなった以上、ここに居続けるのは意味がなかったし、一人で考え続けてしまう事も良くないと医師から言われていた。
会社にその旨を告げると、一応は引き止めてくれたものの、いつ治るとも分からない状態では退職も無理からぬ事という判断になった。
行き付けにしていたラーメン屋でラーメンと餃子を食べ、コンビニで缶コーヒーと朝食用のパンを買って部屋に帰った。
「おかえり」
あ、来てたんだ
「うん」
ご飯済ませちゃったよ
「いいよ。大丈夫」
「鍵、返さないとね」
そうか。そうだね
彼女は僕が病んでいく様子を一番近くで見ていた。
僕の様子がおかしいのを最初に気付いたのも、そんな僕に「お願いだから病院行こう、ね?私も一緒に行くから」と泣きながら言ったのも彼女だった。
ぼんやりと僕らは将来を想像していた頃だった。
僕のアパートの辺りは駅から少し離れると住宅地なのだけど、住むならこの辺りもいいね、とか話したりしていた。
仕事は忙しかったが充実していた。
だが、休みなしに毎日終電で帰るという生活は、若さだけで乗り切るには限界があった。
その事に気が付いた時には既に体調をおかしくしていて、それが原因で仕事が侭ならなくなった事への焦燥感が心に負担となっていったのだ。
仕事を辞めて地元に帰る。
そうするように勧めたのも彼女だった。
「まずは治す事を優先しないと」
僕は頷くしかなかった。
それが去年のクリスマスの頃だった。
何か複雑なクリスマスだわね、と彼女は笑った。
もしかしたら泣いていたのかも知れない。
僕はそれを確かめる事が、どうにも恐ろしかった。
「明日、何時?」
13時半、新横浜
「そっか」
うん
「見送らないよ?」
いいよ
僕は買ってきた、冷たくなりかけている缶コーヒーを開けた。
彼女は自分で買ってきていた缶コーヒーを僕に渡す。
自分でプルトップが開けられないのだ。
爪を剥がしそうで怖いと言う。
僕はプルトップを開けて彼女に渡した。
「ありがと」
うん
「ね」
ん?
「やっぱお腹すいた」
だろ?
「うん」
何がいい?
「食べたんだよね?」
うん。ラーメンと餃子
「じゃパワーズでもいいよ」
駅の向こう側にできた大音量でハードロックが流れる店まで歩く。
もうちょっとしたら花見だね、と彼女は言う。
僕は千鳥ヶ淵に行き損ねた昨年の春を思い出していた。
10分ほどで、その店に着いた。
あまりにBGMが大音量なので、初めの頃は怒鳴り合わないと話ができないのに苦笑いしたものだった。
彼女はピザとビール、僕はビールだけを頼んだ。
「あのね」
うん?
「この期に及んで何だけどさ」
うん
「ちょっと後悔してるのよ」
何を?
「地元に帰った方がいいって言った事」
そうなの?
「うん」
でもさ
「うん」
早かれ遅かれ帰る事になったと思うんだ
「うん」
この先どうするにしろ
「うん」
このままじゃ埒が明かない
「うん」
そうなんだよな、と彼女は独り言を言うとビールを飲み干した。
空になったグラスをテーブルに置いて、コースターを暫く眺めていた。
店にはようやく人が入り始め、BGMはブラック・サバスからアリス・クーパーに変わった。
「あのさ」
ん?
「怖くて聞けなかったんだけど」
何?
「んと …」
うん
「終わりじゃないよね?」
彼女は空のグラスをテーブルに置いて僕に向き直った。
ぼくが聞きたいよ、それ
昨夜テレビで流れた懐かしい街を見ながら思い出していた、あの頃の思い出。
こちらに続きます。
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