老人の家
もうだいぶ昔の話だけれど、ボランティアの真似事みたいなことをしていて、特別養護老人ホームへ通っていた時期があった。
そこは要介護認定でも重度の段階の人が多く、ほとんどの人が認知症であり、車椅子での生活をしているか寝たきりという施設だった。
ぼくは介護の資格を持っているわけじゃないから、話し相手になったり、介護士さんの手伝いをする程度だったけれど、病院や自宅への送迎などの車の運転をする事もあった。
その中でひときわ身体の大きいおじいさんがいた。
施設の中では、割合介護する必要が少ない人だったけれど、やはり認知はあり、移動も車椅子だった。
もともと土建屋さんで威勢のいい人だったようで、とにかくまず声がデカい。
言葉遣いも乱暴で、介護士さんも「時々カチンと来るんだよね」と苦笑していたような人だった。
入所した事情も複雑で、認知が酷くなるにつれて、家庭内で暴言や暴力が目立ち始め、一緒に暮らしていた娘さんが、その事が原因で鬱を患ってしまったのだ。
もう自宅での介護は無理だと判断した奥さんは、夫を入所させる事にしたのだけど、夫の方は納得がいっているのかいないのか...。
ショートステイやデイサービスとは違って、本入所では基本的に施設が家のような感じになる。
だから、家の帰るのは「外泊」になるのだけど、そのおじいさんは毎週のように家に帰りたがる。
しかし、外泊時にはやはり暴力暴言があり、家族としては正直戻ってきてほしくないのだ。
普段施設で会うおじいさんは大人しくていい人だ。
ぼくの顔は覚えていて「ああ、いつもすいませんねぇ」なんて声をかけてくる。
自分から話しかけてくる人なんて、その施設では珍しい。
何せ呼びかけても反応がない人がほとんどだから。
だからぼくも、ある意味では他の入所者よりも親近感があったのかもしれない。
何度か外泊に自宅まで送り、迎えに行ったりをしていた。
時々施設に戻りたくないと駄々をこねたりしたが結局ちゃんと帰って来ていた。
ある時、その前日に自宅に送ったおじいさんの家族から電話が入った。
朝、布団から起き上がれなくなったと。
どこか悪いとかではなさそうだが、家族はおじいさんよりも身体の小さい人ばかりなので、起こす事ができない。
とりあえずぼくらで迎えに行って、様子を見てから必要なら病院に連れて行くという判断になり、ぼくは介護士さんとおじいさんの自宅に向かった。
何とか車に乗せて(ぼくは布団から起こすときに腰をやった)施設に帰る途中、おじいさんはとても悲しそうな顔をしていた。
実際そういう状態では家に帰すことは難しくなる。
元気になればいいのだけど、年齢から考えても元通りになるというのは考えにくい。
そうなれば事実上、家には2度と戻れない。
でも、おじいさんにしてみれば「家」は自宅なのであって施設ではない。
若いころから頑張って働いて建てた「オレの家」なのであって、そこに戻れないという現実は受け入れがたい。
それから事あるごとにぼくを見つけると「◯◯日は墓参りに行くからウチに連絡してくれ」とか「今度の外泊ははいつだ」とか尋ねていた。
でもきっとおじいさんは、もう自宅に帰れないことを知っていたではないかと思う。
帰れば家族に迷惑がかかる。
でも帰りたい。
たぶん分かっていた。
自分の家に帰りたいと思うのは自然なことだ。
ご家族の気持ちも本人の気持ちも分かる立場だったので、ぼくは複雑な気持ちで接していた。
年齢からいっても、もう鬼籍に入られただろうか。
あのバカでかい声をふと思い出す。