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巨神兵と朝日の当たる家

この短い動画は何年か前に名古屋市科学館で「特撮博物館」とかいうイベントで観た。館長は庵野秀明さんという触れ込みだ。
これほど長くなかった気がするが、気のせいかも知れない。

林原めぐみさんの声が妙に艶めかしく思えたのを覚えている。そういや綾波レイもそうだったな。

昨日、近くまで行ったから映画「PERFECT DAYS」の中で主人公の平山が住むアパートを見に行った。

ものすごく「好い」映画だった。

前にも書いたが、この映画は徹頭徹尾「何も起こらない」
ちょっと話題になった渋谷のオシャレトイレを掃除するのを生業としている中年のおじさんが淡々と過ごす毎日を描いている。
清貧というのか、写真にあるような風呂無しのアパートに住み、朝は近所の神社を掃き清める音で目覚め、部屋で育てている植物に水を遣り、体裁を整えてバンに乗って出勤する。
執拗なまでにトイレを磨き上げ、木漏れ日のさす公園のベンチでサンドイッチを食い、仕事を終えたら自転車で銭湯に行き一番風呂に浸かる。
帰りに馴染みの店で一杯やり、部屋に帰って布団の中で眠くなるまで本を読む。
そんな中でもちょっとした出来事は絶えずあって、それはさざなみのように平山の心を動かすが、それも回収などされず、起きたことは起きたこととしてそのままにされる。
ラストは平山の顔を1分以上アップで写し、それで終わる。

まあ簡単に言っちゃえば、そんな映画だ。

この「PERFECT DAYS」が日常であるなら、冒頭の「巨神兵東京に現わる」は、その日常を破壊する非日常の権化だろう。
でもぼくらが想像し得る中では巨神兵など現れるはずがないし、実際九分九厘現れない。
だから娯楽の一環として観ていられる。

でもぼくは初めて「巨神兵東京に現わる」を観た時、正直に大変恐ろしかった。
ぞっとしたのを覚えている。
いい年したおっさんが何言ってんのかと言われそうだが、特撮がどうとかいう話ではなく、圧倒的な暴力というのはこういうものか、というのを改めて考えてしまったのだ。
救いなどない。
文字通り抹殺されるのだ。

この厄災の中に、もしも平山がいたらどうしているだろうと、ふと思った。

何も起こらない日常に降りかかる圧倒的な非日常。
ヴィム・ヴェンダースは平山を最初は僧侶という設定にしたのだという。
これだけモノと情報に溢れかえる東京で、あの生活を淡々と過ごすというのは、ある意味での「悟り」なのかも知れない。
そんな悟りの中で巻き込まれる暴力に平山は何を思うだろう。

諦めるか抗うか。

「巨神兵東京に現わる」で描かれるのは旧約聖書の「創世記」にある天地創造の、神が6日かけて世界を創造し7日目を安息の日としたという部分である。
神とは救いもたらすだけではない。
だから人は畏れ崇め奉る。
対してヴェンダースが僧侶をイメージした平山の悟り。
神と仏。ぼくは両者とも「その瞬間というのは二度とこない」ことを暗喩している気がする。

前にちらっと溢した「他人の『何気ない私の日常』に誰も興味はない」と喝破した御仁は、「80歳でも撮れるものを今日撮らなくてもいい」と書いていた。
あなたは80歳になることができて、なおかつ写真も撮っていられると誰か保証でもしてくれたのだろうか、と思う。
一瞬先のことなど誰にもわからない。
言い古された言葉だが、これこそが真理ではないか。
先のことが分からないからこそ、今を精一杯生きるのだ。
目の前のことは「絶対に」二度とは起きない。
同じに見えても、やはり違うのだ。
80歳になっても...と言えてしまうのは慢心であろうと思う。

平山が巨神兵を前に何を思うかは分からない。
いずれにしても抹殺から逃れることはできそうにない。
神の意思であるなら、もうそれはそうであるしかない。
そこで、それまでの人生のその瞬間を愛してきた人とそうでない人はなにか違うものが胸に去来するのではないかと思った。

今を生きられないなら一瞬先もない。
そんなことを思いつつ、日々迫り来る煩悩と戦うおじさんの日常をこれからもよろしく。

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