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変容するストリートスナップ
インスタなんかで時々見かけるのに「すいません、ストリートスナップやってる◯◯というものなんですが...」というやつがある。
ぼくは古い人なので「?」だった。
認識が古いのだろう。
ぼくの中ではストリートスナップというのは、こういうものだ。
もうジャンル分けというのに意味などないのかも知れない。
多様性の時代だ。
本人がストリートスナップだというならストリートスナップなのだろう。
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でもどうなんだろうと思う。
こうした認識のズレは「盗撮」や「かくし撮り」が「肖像権」や「プライバシー」を後ろ盾に撮り手の倫理観など無視される中で議論されてしまうのに似ている気がする。
例えば何十年か後に、その頃の人たちが令和の世の中を映像などで見るときに、モザイクやボカシだらけの街の様子を見て「ああ、懐かしい」と思うのだろうか。
人の姿がない東京を見て「ああ、東京はこんなふうに賑やかだった」とか思うのだろうか。
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写真は記録である。
ボカシやモザイクの入った写真なんてプリクラで盛りに盛られた写真と大差ない。
話が逸れてしまった。
ストリートスナップの認識の話だ。
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声がけしてポートレートを撮るというのは分かる。
ぼくもやったし先人もたくさんいる。
なんなら写真学校の課題だったりする。
声がけしてストリートスナップを撮るというのはどうか。
古いぼくにはなんとも理解しがたい。
ストリートスナップは写真の原点のように思っている。
ニセフォール・ニエプスは窓から見える景色を撮影した。
まさにストリートスナップである。
8時間も露光したから人の姿などはないが、まさにその日の記録だ。
やたら哲学的になって煙に巻くような話も聞くが、少なくともぼくにとって写真とは記録以外の何物でもない。
作った記録に意味なんかない。
AIが出てきて誰もが簡単に写真をいじることができるようになった昨今だからこそ、ストリートスナップとは記録であり続けて欲しいと願う。