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そしておわり

それから。
僕は30歳を過ぎて、ようやく色々な事にほんの少し余裕を持てる様になった。
以前から知人だった女性と結婚し、未だ子供は居なかったが、平々凡々の毎日を、それでも今から思えばじゅうぶんに忙しい、そして充実した毎日を送っていた。

彼女の現在については知る由もなかった。
共通の知人がいる訳でもなく、また今更連絡を取った所で、話すべき事などないのも分かっていた。

時折、彼女を思い出す事があった。
取り分け美人と言う訳ではない。
染めなくても光を受けると淡く栗色に光る髪を、顎のラインの少し下で内側に緩くカールさせていた。
肌は白くて、日焼けすると真っ赤になって大変だと言った。
身長は標準よりも少し小さいかも知れない。
またグラマーでもなかった。
「『貧』とか言うな。『微』と言え」
と言って笑っていた。

彼女を思い出すと同時に、どうしても辛かった時期を思い出さずには居られなかった。
一番身近に居て、そして一番心配してくれていた。
本当なら東京を離れる時に終わるべきだったのかも知れない。
それでも何となく続いてしまったのは、僕が自分以外の事に気を配る余裕がなかったのと、彼女にしても、やはり踏ん切りがつけられなかったのではないだろうか。
何れにしても、僕は彼女に甘え続けていたのは事実だし、いくら気持ちに余裕がなかったとは言え、ほんの少しも彼女の気持ちを顧みる事すらなかったのだ。
何ともひどい話だ。

僕は慎ましやかに家庭を築いていく事と仕事に没頭した。
実際にそうするべきだったし、そうする事で余計な事を考えなくて済む。
友人時代を含めると、結婚する時点で10年余りにもなる旧知の仲だった妻は、それ迄のあれこれを既に知っているので、僕のそうした無言の決意に口を挟む事なく、またそれが原因で何かを訝ることもなく付き合ってくれた。

僕の新しい仕事も、やはり本社は東京に在って、月に何度かは出張で出向く事になった。
新幹線が新横浜を過ぎ多摩川を渡る頃、左手にかつての街が少しだけ見える。
初めの頃は少し胸が苦しくなる様な気がしたが、やがてそういった事も瑣末な事に変わっていった。

時間は流れ、人も変わる。
僕は「彼女の彼」ではなく、現在勤めている会社の社員である僕となり、夫としての僕になり、やがて父親としての僕になっていく。
誰だってそうだろうし、若かった頃の少し痛みを伴う記憶として、それは永遠に僕の胸にしまわれる。
思い出す事はあるだろうが、それはその度に浄化され、やがて痛みも薄れていく。

一度、会社で採っている雑誌で彼女を見た。
彼女の会社の提供しているコンテンツの切り口が新しいと取り上げられていたのだけど、そのリーダーとしてインタビューに答えていた。
その応答から彼女の口調が伺え、掲載されていた何枚かの写真から受ける印象は昔のままだった。
しかし何より、名字が変わっていた。

そんな風だったから、品川駅のアトレ側のスターバックスで彼女を見掛けた時は、その偶然が支配する力のあまりの凄まじさに、頭を後ろから殴られた様で気が遠くなる気がした。
何年も経っているのに、他にも大勢の人がいて店内は混み合っていたのに、僕らは一瞬でお互いに気が付いた。
笑う以外にリアクションの取りようがなかった。

ええっと
「何なのよ、もう」

彼女も笑いながら、テーブルに広げていた書類を片付けて(どうぞ)と椅子を勧めた。
僕らはしばらく黙った。
現実感がまるでなくて、この何年も話したいと思っていた事がどっと押し寄せるのだけど、言葉にする事が出来ないでいた。

出張?

僕は彼女の足元のキャリーバッグを見て尋ねた。

「そう。あなたも?」
うん

少し驚く。
彼女から「あなた」と言う言葉を聞くとは思いもしなかった。

「え?」
『あなた』って
「え?あ、そうか」
うん
「いつも『ねぇ』だったね」
そう

少し膨よかになった。
そのせいか実際の年齢よりも若く見える。
幸福そうだった。表情に翳りがない。
仕事の事、結婚の事。
そんな話をしたと思う。
正直、余り内容を覚えていない。

「ね」
うん
「そろそろ行かないと」
あ、ごめん
「うん」

彼女は身の回りを片付け、一度立ち上がろうとして座り直した。
ふん、と鼻を鳴らして、僕を睨んだ。

「また私から言わせるの?」
え?
「『じゃあまた』って」

階段を上がった所では、席を探す人たちが増え始めていた。
夕方のラッシュがそろそろ始まる時刻だった。

出よう

僕はそう言うと、彼女の手を取って店を出た。
彼女は少し怒った様な表情で、無言で僕の後を付いてきた。
雑踏に逆らう様に歩いた。
何所に行くと言う宛があった訳ではない。

「ねぇ」

「ねぇってば」

「何所に行くの」

彼女は立ち止まって、僕の手を振り解いた。

「今日はびっくりした。まさか会うなんて想像もしなかった。スタバの入り口であなたを見つけて、あなたが私に気が付いて、それであなたが笑うんだもの。この数年が一瞬で吹き飛んだ気がした」

彼女は一気にそこまで捲し立てた。
横を通り過ぎた高校生がちらっと僕らを見た。

「でもさ」
いいよ。分かってる
「何を?」
僕も同じ事を思った。また明日から昔みたいに過ごせるような気すらしてた。 
「…」
でもそうじゃない。僕らにはそれぞれ帰るべき所がある。

「そう。お互いに」
だから今日僕が言わなくちゃいけないのは『じゃあまた』じゃない

彼女は真っ直ぐに僕を見ていた。
昔より少し長めにカットしている髪が後ろから差し込む夕陽に反射して、やはり淡い栗色に光っていた。
僕はそんな状況であるにも関わらず(ああ、キレイだ)などと呑気な事を思っていた。

「言って」

彼女は声にならない声で、僕の耳に唇を寄せて言った。


ここ迄で良いかな、と思う。
僕が何を言ったかは想像して貰えば良い。

少し長くなり過ぎた。

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