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彼岸と此岸(170回目)
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これらの写真は今から10年ほど前に2度目の入院をした時、暇にあかせて撮ったもの。
病名は「心不全」であって肺に水が溜まり呼吸が上手くできなくなり常に溺れているような状態だった。
1度目は「心筋梗塞」だから2度目の原因はそれである。
枕が変わると...というほどナイーブではないはずだが、2度の入院ともにまったく眠れなかった。
看護士に頼んで眠剤をもらう有り様で、ひとまず眠りにつけたとしても朝方、夜が明け切る前に目が覚めてしまう。
そんな時間帯の写真だ。
山間の病院だったので大変に静かで上のような霧が出たりもする。
夜明け前のぼんやりとした光を見ていると、なにやら彼岸にいるような気さえする。
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入院してひとまず落ち着いた頃、名古屋から父が来てくれた。
母はすでに病床にあって電話で「行けなくてごめんね」と何度も詫びた。
その声は今でも耳に残る。
その後急速に痴呆が進んでしまい、この電話がぼくの名前を呼んだ最後になった。
父は免許がないので名古屋から岡崎まで電車やバスを乗り継いで来たのである。
年寄りにはずいぶん厳しい道のりだっただろう。
ぼくはまだ呼吸のための機械や点滴を繋いだものを押して歩いている状態で、ずいぶん酷い有様に見えたに違いない。
ショックだったのだろう、父はぼくの姿を見て言葉を失っていた。
1度目の入院では父はほとんど病院に来なかった。
初日に「今夜がヤマ」と告げられ、ベッドで意識を失い管だらけになったぼくの姿は、あまりにも強烈なトラウマになっていたのではないかと思う。
ぼくが娘のそんな姿を見たら間違いなくそうなる。
代わりに母が日参してくれていたというのもあったのだろうし、当時はまだ仕事もしていた。
なのでまたもや管だらけになっているぼくの姿は、その時の記憶を呼び覚ましたに違いない。
ぼくは来てもらって嬉しいやら申し訳ないやらで、やはり言うべき言葉が見つからなかった。
曖昧に笑っただけだったと思う。
申し訳ないというのは、これが親より先に逝ってしまうという親不孝をしかけたのが2度目だという事。
父にしてみれば母も動けなくなり重ねてぼくも入院となれば心中如何許りだったかと察する。
さぞや運命を呪った事だろう。
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2度も彼岸の淵からこちらにとどめ置かれた。
それには何か意味でもあるのだろうか。
よく「生かされたのには何か意味がある」というのを聞くが、今どきはそう簡単に死なせてもらえないのだ。
本当ならそこで終わりだったものが、何の因果か終わりは延期された。
罰当たりなことを言っているのは重々承知している。
生きている意味など分からない方が幸せなのかもしれない。
知らぬが仏。
昔の人は上手いことを言う。