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寺田屋(2014年)

(ぼくの記事は昔書いたブログの記事を再掲することが多く、そのため場所や時系列などが現在ぼくが生活している状況とそぐわないことがあるので、これからはタイトル後に書いた年を入れていこうと思う)

歴史に興味のない人でも1度や2度は「寺田屋事件」というのを聞いた事があるのではないだろうか。
場所が伏見なので京都の華やかな辺りからは少し離れていて、足早な京都観光では行きにくいのかも知れない。
伏見は明治天皇の伏見桃山御陵、同じ場所にあったとされる伏見城など江戸期より以前の旧跡が多くある土地でもある。
寺田屋事件については僕自身も長い間混同していたのだけど、二度起きている。
一度は薩摩藩士同士の粛清事件であり、もう一度は伏見奉行所による坂本龍馬捕縛事件である。

問題は近年巻き起こった「寺田屋焼失」に関する調査結果だった。
以前から寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで焼失しており、現存する建物は再建された物という説は根強くあった。
何せこの地は彼の戦の激戦地のど真ん中であり、調査結果として公開された京都市歴史資料館による資料においても、その被害の粗方が当時のかわら版として残されていて、それを見るにつけ当該寺田屋は焼失している事が確認できるなど、これらを覆すのは、それこそ歴史をひっくり返すくらいの証拠が見つからない限りは無理っぽい。
つまり現段階での結論は「寺田屋は焼失している」という事である。

じゃあ入館料400円也(2014年当時)を徴収して、刀傷や弾痕、お龍が階上の龍馬に急を知らせた階段、その時入っていた風呂などを見せているのはどういった了見なのか、と昨今ネットなんかで巻き起こる「炎上」のタネになりそうな話になる。

個人的には「まァ、別に良いんじゃないか」なのである。
「ここら辺りにあったアレっぽい建物の中でそういった事件があって、その事件はたぶんこんな痕跡がある筈」という物なのである。
これぞ本物だ!とかの泥仕合になると話は違うのだけど、伏見地区としても重要な観光資源であろうし、今更「これは違うから観光ルートから外せ」とか言われても困惑するだけだ。
帰り際に寺田屋のモギリをしていた女性にそれとなく水を向けると「諸説ありまして...」と言葉を濁した。
そういう事なのである。

映像などで証拠があれば話は違うが、書面だけの歴史は「お前、見たんか?」の世界である。
色々な検証を行なって慎重に議論を重ねて、それでようやく「恐らくこうだったのではないか」という「憶測」を立てるのである。
十中八九間違いがないとされる史実においても同様であって、何でここまで周りくどいのかと問えば、それは「見てない」からである。
100年もすれば「見た」という者はいなくなる。
今は映像記録があるので極めて信ぴょう性の高い証拠が残るが、それでも事件・事故の類の突発的に起きた歴史的な出来事に関しては記録映像がない物が多い。
またケネディ大統領暗殺事件の様に事件の映像があっても、未だ疑惑の多い事件も多々ある。
人間は勝手なモノだから信じたい事にしか耳をかさない。
史実はこうであったという圧倒的な事実があっても、頑なにそれを取り上げない人たちがいるのは昨今の報道の中でも改めてよく知られた事だろう。
例えあやふやであっても眼前に実際にある物は説得力があるし、それを喜んで見る人がいれば現存の寺田屋にも十分に意味があるのである。
まァ、「刀傷」だとかのシールは剥がした方が良いと思うのだけれど...。

寺田屋を出て5分ほど歩く大手橋の北西詰に、龍馬が手に大怪我をして這々の体で逃げ込んだ材木屋の跡がある。
三吉慎蔵の知らせを受けた薩摩藩は船で龍馬を救出した後、写真奥にある月桂冠昭和蔵にあった紀州藩伏見屋敷を過ぎ、現在の松山酒造にあった薩摩藩伏見屋敷に向かったとされている。

亡くなった枝雀師匠の名人芸が堪能できる。
小一時間の長丁場なのでお時間のある時に。

この寺田屋は船宿であるから噺に出てくる宿もこんな感じだったのだろう。

写真は十石舟、三十石船の船着場がある宇治川支流の濠川。
十石舟、三十石船とは江戸時代に始まった、京都・伏見から米、酒を大坂まで運ぶ他に旅客運搬を目的とした輸送船である。

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