豊橋・東田遊郭跡(173回目)
愛知県豊橋市にある「東田遊郭跡」
東海道五十三次が整備された慶長6年(1601年)の豊橋付近にはすでに「吉田宿」、「二川宿」が設えられていた。
特に「吉田宿」(現: 豊橋市札木町付近)は、本陣、脇陣を構える大きな宿場であり、旅籠屋も65軒ほどがあったとされている。旅籠屋は「飯盛女」と呼ばれる遊女を置くのが通例で、大きな宿場であればあるほどその数も多くなり、「吉田宿」も、その雰囲気を持った宿場だったと想像できる。
古くからの歌で「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振り袖が」という俗謡もあり、往時の華やかさを感じさせる。
明治2年(1869年)に吉田藩は豊橋藩となる。
その後、明治4年(1871年)の廃藩置県で額田県となり、さらに明治5年(1872年)には名古屋県と合併し、現在の愛知県となっていく。
明治38年(1905年)、日本は日露戦争に勝利すると、徐々に軍部の発言力が政治を動かすようになっていく。明治39年には富国強兵政策のもと、東海道筋に1個師団を設置することが計画された。
名乗りをあげたのが大口喜六市長(当時)を会長とする「豊橋師団設置期成同盟会」で、誘致運動の結果、明治40年(1907年)3月、陸軍は第15師団を豊橋に設置することになった。
大口市長はこの師団誘致の条件として、その時既に形成されていた札木・上伝馬にある遊廓を適当なところへ移転、拡張することがあったとされている。
遊廓移転が市議会で可決され、議会は両遊廓に対して移転命令を出した。
これにより業者は、瓦町と東田へと移転を余儀なくされたが、移転は当初の思惑どおりには進まなかったという。
最終的には業を煮やした市長の業者への命令によって、ようやく東田遊郭が形になっていく。
これらの建物は東田仲の町の建物。
ここは公園を中心にした「ロ」の形状をした区割りになっている。
1925年(大正14年)に第15師団は廃止されたが、その後も陸軍の関係施設が存続され、1929年(昭和4年)発行の「日本遊里史」には、東田遊廓の軒数は50軒、娼妓数は171名とある。
やがて第二次世界大戦に突入、戦局が厳しくなった昭和19年(1944年)豊橋に新たな部隊や軍需工場が設置されることとなり、東田遊廓がその宿舎として徴用されることになった。
ほどなく終戦を迎えるが、混乱の最中、他の遊郭もそうだが、いち早く復興を遂げていく。
一部では町の活性化のため、遊廓の復活を支援する動きもあり、そのことで市議会も紛糾したという。戦後の混乱ぶりを伺わせる話だが、昭和27年(1952年)、現在の東田仲の町に「東田園」の名で新たな公娼区が誕生した。
しかし、そのわずか5年後の昭和32年(1957年)には売春防止法が施行され、この「東田園」も短い役目を終えた。その後は旅館や料理店に転業し、往時の名残りを未だに残しているのである。
というような記事を10年くらい前に書いた。
カメラはローライフレックス・スタンダード。
2.8や3.5などのローライは良いのだろうけど重い。
その点では、このスタンダードは拍子抜けするくらい軽い。
非常にシンプルは造りだがメカニズムは凝ったものが採用されている。
まあそんなことは記事の中身とはまったく関係ない。
写真の下に書いてある呪文のようなものは真宗でいうところの「南無阿弥陀仏」みたいなものなので気にしないように。