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らじばんだり(121回目)

上の橋梁は多摩モノレール。

二子玉の楽天など。

渋谷。言わないと分からない

外苑の銀杏並木。
ライトアップが始まっているようで両側駐車禁止。

ここでも外国からのお客さんが目立つ。

冷たい雨が降ったり止んだり。
らじばんだり。

語るなら写真について、とか宣っておきながら特に語るべきことなんか見つからない。

そうだなァ。

写真を撮らない人と写真を撮る人。
大まかに世の中はふたつに分かれると思う。

写真を撮るのは、一般的に記録に残すことが目的でしょう。子どもの成長や旅の思い出を記録したり、面白いこととの出会いを誰かに伝えたりするために「百聞」を「一見」で補うようにシャッターを切ることもあれば、資料収集や調査のための画像データとして撮影することもあります。そして記録として撮り続けるうちに美意識が生じ、ピントや構図、アングルなどが気になり出すと「よく撮れたか」が撮影の楽しみとなります。

「旧学び!と美術」人は、なぜ写真を撮るのか 

なにかの論文に写真を撮る理由として「思い出欲求」と「現実戯画化欲求」があるとしているのを見たことがある。
思い出を残したいというのと、今の状況や事象の側面を強調したりフォーカスすることで戯画化したいという欲求だったと思う。
なるほど、これなら撮る人の衝動の発露はよく分かる。
ぼくも行動に理由をつけるのだとすれば、こんな感じになるだろう。

ここまで崇高な理由はなくても写真は撮ったらいい。
それで自分が何か思うことがあるなら、その一枚の意味はじゅうぶんにある。
暑かったな寒かったなでいい。
その一枚は、今日自分がそこに存在した証であることに他ならない。
raison d'êtreそのものなのである。
なにしろ同じ写真は他の誰にも撮れないのだから。

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