森山崩れ
ぼくは、そこそこの歴史(日本史)好きである。
というか、ぼくが生まれ育った名古屋という土地は中世の歴史の宝庫である。
信長、秀吉、家康(正確には信長、家康は名古屋市内ではないけど)は言うまでもないが、加藤清正は秀吉と同じく中村区に出自を持つし、福島正則は現在のあま市、前田利家は中川区である。
以下、
柴田 勝家(名古屋市名東区\北の圧城主)
増田 長盛(稲沢市増田南町\群山城主)
長束 正家(稲沢市長束町\水口城主)
丹羽 長秀(名古屋市西区\白河城主)
佐々 成政(名古屋市西区\富山城主)
佐久間 盛政(名古屋市昭和区\金沢城主)
池田 輝政(名古屋市中川区小城\姫路城主)
生駒 親正(江南市小折町\高松城主)
浅野 長政(一宮市浅野公園\甲府城主)
堀尾 吉晴(大口町堀尾跡公園\松江城主)
溝口 秀勝(稲沢市西溝口町\新発田城主)
蜂須賀 正勝(あま市\子・家政が徳島藩初代藩主)
山内 一豊(一宮市木曽川町・岩倉市\土佐藩初代藩主)
と続く。
三河の松平・徳川に仕えた三河武士となると、
酒井 忠次(岡崎市井田町\吉田城主)
平岩 親吉(幸田町\尾張藩家老)
大久保 彦左衛門(岡崎市上和田町\旗本)
本多 忠勝(岡崎市西蔵前町\桑名城主)
鳥居 忠吉(岡崎市渡町\矢作城主)
加藤 嘉明(西尾市上永良町\松山城主)
榊原 康政(豊田市上郷町\館林城主)
山本 勘助(豊川市牛保町・豊川市賀茂町\武田軍軍師)
大久保 忠世(岡崎市上和田町\小田原城主)
など枚挙にいとまがない。
そんなふうだから、そこかしこで信長が、秀吉が、などというエピソードが転がっているのだが、名古屋という土地柄なのか、そういうことにまったく無関心なのである。
ぼくが住んでいた「守山区」や「北区」も例に漏れず、であって、特に守山区は「小牧・長久手の合戦」の戦場になったところであるから、我が家の墓所である「竜泉寺」は秀吉が陣取った「竜泉寺城」があった場所であり、秀吉が掘ったとされている空堀の跡が今も残されている。
これは「森山崩れ」の「現場」である。
ここで落命した松平清康は、後の徳川家康の祖父にあたる人物であった。享年二十五歳。
安祥の土豪であった松平を三河の有力武将に仕立てたのは清康による。
幼い頃から文武に優れ、十四歳になった頃には 175cm ほどもある大男だったという。
大久保彦左衛門の「三河物語」に依れば、清康が後5年生きながらえば、徳川の世はもっと早くに訪れたはずと残している。
歴史に「もし」はないが、当時の勢力図を見ても、この森山崩れがなければ松平の尾張半州制圧は間違いなく、そうなれば織田は清洲以東に迂闊には手を出せなくなる。
東の今川も家督争いが勃発した頃であって、尾張制定後、松平が義元に付かず義元の兄である象耳泉奘に与すれば、義元も間違いなく排除されたはずである。
そうなれば駿河にも三河の影響が及ぶはずであって、尾張、三河、駿河とを治める巨大な勢力が出来上がる。清康にはその才覚も実力もあったとする歴史書も多い。
写真は「森山城」があった場所に建てられている「宝勝寺」である。
正確には掘割を挟んで城址の南側にあるが、ここに清康の位牌を安置している。
清康が生きながらえていたら、信長とてうつけのまま、秀吉も中村の百姓の倅のままだったかも知れない。
何れにせよ、この事件がなければ清康は早晩名を轟かす武将になった事は間違いなさそうだ。
世はまさに下克上、この事件に関しても様々な憶測があるが、これ以降、世はますます混迷の度合いを増していく。
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