中山道 妻籠宿
妻籠宿は中山道42番目の宿場町である。
隣の宿(本当はもう一つ宿があるのだけど)である馬籠とは事なり、妻籠は昭和51年に「重要伝統的建造物群 保存地区」に選定され、「売らない」「貸さない」「こわさない」をスローガンに、古くからの街並みを町民自らの手で保存する努力をしている。
この妻籠は蘭川の段丘にある集落であるが、古代から人の営みがあったとされる。
中世に木曾氏の一族と見られる妻籠兵庫助が室町幕府から御厩の材木を供出させており、歴史上初めて「妻籠」の名が登場する。
戦国期には豊臣方として小牧・長久手の戦いでは、木曾義昌が徳川方に攻められた際には山村良勝が立て篭る。この戦で、良勝に従った者の中に島崎監物(妻籠・馬籠等の島崎氏の先祖)の名がある。
秀吉による全国統一後、木曽は幕府直轄地となり木曾氏は千葉へ移封され、犬山城主であった石川光吉を木曽代官として任命する。
後に関ヶ原の戦いに於いては、石川光吉は秀忠率いる東山道の尖兵として木曽を平定する。
近代、江戸期では中山道の宿場として整備され、川留めでしばしば日程を変更せざるを得なかった東海道よりも好まれることの多かった街道の重要な宿場として繁栄する。
妻籠宿には「本陣」「脇本陣」が置かれた。 「本陣」とは
とある。
また「脇本陣」については
とされている。
写真は黄色の花の写真を挟んで、上が「脇本陣奥谷」下が「妻籠宿本陣」である。
本陣には先のエントリーにも名前が上がった島崎氏が任命され、明治まで本陣・庄屋を兼ねた。島崎藤村の実母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄で、馬籠から養子に入った広助であった。
建物は明治に入ってから取り壊され、平成7年に江戸時代の絵図を元に復元されたもの。
脇本陣は林氏の居宅であり、代々脇本陣・問屋であった。
こちらの建物は江戸時代までは禁制であった檜をふんだんに使って建てられたもので、島崎藤村の初恋の人「おゆふ」さんの嫁ぎ先でもある。
明治天皇が巡幸の際に立ち寄られ、その為に設えた門、部屋、雪隠、風呂なども見ることが出来る。
仄暗く黒光りする囲炉裏端に座ると「夜明け前」青山半蔵の晩年を思い起こす。
雨が降ったり止んだりで湿度が猛烈に高かった。
車を降りた途端にメガネが曇って視界が真っ白になった。
(2015年の記事より)
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