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逢魔時(108回目)
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海の向こうでの選挙で朝から大騒ぎである。
大国の大統領選挙なのであるから致し方ないのだろう。どっちに転ぶかで右往左往するのである。
なんだかなァと思ってしまう。
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近ごろは理由は色々あるのだろうけれど街路灯はLEDになっている。
もちろん本来街路灯は明るくなくては、その目的を果たさないわけで、さらには交換のスパンが長くなればコスト面からも優れているからLEDに変更されるのは道理である。
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ただ情緒的か、と問われると...。
闇は闇としてなければならないとも思っている。
本来闇であったところに無作法な光を当ててはいけない。
人は闇を恐れ、そこに足を踏み入れないように用心する。
闇には闇の住人がいて、彼らもまた不用意に光のある場所には出てこない。
子どもの頃、そこかしこに闇がまだあった。
神社の森。崖の中腹の横穴。倉庫脇の廃屋。
昼なのに陽の当たらない暗がりも多くあった。
ぽっかりと口を開ける闇は子ども心にも恐ろしかった。
そうやって子どもたちは光のあるところを歩くことを覚えていく。
闇に堕ちてはいけない。
本能でそれを感じて覚える。
闇のものにとらわれてはいけない。
闇に光を当てるとどうなるか。
果たして闇は恐るるに足らない場所になるか。
そこにいたものたちはどうなるか。
彼らは駆逐などされない。
さらなる闇に潜むようになるだけである。
そして、そのさらなる闇は足を踏み入れたら最後、ニ度と日の当たるところには出られない闇となる。
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あなおそろしや。
誰そ彼の逢魔時。
昼と夜との端境に銭湯の灯りで胸を撫でおろす。