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中村遊郭夜話(2010年9月)

昨日は写真撮るどころではなかったので、昔のブログから投稿を再掲する。
当時は遊郭跡を巡ることをやっていて、地元の中村遊郭跡について書いたものである。
中村遊郭というのは名古屋市中村区にあって、大正から昭和にかけて存在していた公許の娼家が集まっていた場所で、東京であれば吉原、大阪であれば新町などにあたるのだろうか。
名古屋駅があるのは中村区の東端にあって、また豊臣秀吉の出生地としても知られている中村公園がある。

大変に長い記事であるから、お時間がある時に。

1913年(大正2年)、名古屋市に隣接した中村における開発事業を開始した会社の名古屋土地が、軌道部を設立して路面電車事業に乗り出したことが創始である。最初の路線は、地上駅時代の名古屋駅を跨ぐためにかけられた明治橋(1937年{昭和12年}の高架化時に撤去)の西側を起点とし、太閤通を西進して中村公園の入口に至るものであった。
鉄道事業者が不動産事業を開始した例は、1910年(明治43年)開業の箕面有馬電気軌道(箕有電車、阪急電鉄の前身)を初として徐々に現れ始めていたが、逆に不動産会社が鉄道事業を行う事例は、現在では紀州鉄道や山万などが存在するが、当時としては珍しいものであった。
その後、1926年(大正15年)に名古屋土地から分社化された中村電気軌道の運営に代わった。この年の電車の乗客は250万9,845人であったが次第に減少し、1929年(昭和4年)の乗客は158万2,957人となった。これは、名古屋駅前を発着し中村遊郭(中村大門、本社前付近)へ向かう他社のバスが1923年(大正12年)9月に運行を開始し、駅前を発着せず不便な電車から利用客を奪ったためである。中村電気軌道もこれに対抗して1929年1月から名古屋駅前-中村公園間でバスの運転を開始したが、名古屋市営バスも1933年(昭和8年)7月に那古野町-中村公園間に路線を新設したため会社の収益は少なかった。また、電車は名古屋市電より運賃が高く評判が悪かった。
1936年(昭和11年)5月、1935年(昭和10年)から進められていた市内民営交通機関の統合によって中村電気軌道は名古屋市に買収され、電車事業・バス事業は名古屋市電気局(名古屋市交通局の前身)に移管された。買収前の1年間の乗客は、電車が36万8,290人、バスが126万9,436人であった。
中村電気軌道を買収した路面電車は中村線とされ、当初孤立路線であったが、東側は名古屋駅高架化に伴い笹島町まで延長され、既設の名古屋市電の路線に接続した。西側も豊国神社の大鳥居をくぐって中村公園に向かっていた区間を廃止して稲葉地町まで伸延されている。その後、中村線は1972年(昭和47年)2月29日まで運行を続けている。

たとひ中村遊郭が、東洋一の建築美を誇つても、さうして今なほ木の香新らしく嫖客ひようきやくの胸を打つても、やはり遊郭は旧時代の遺物である。いつそ古ければまだ古いだけに思ひ出も深いのだが、元亀天正の昔をしのぶ外、(といふのは、中村はいふ迄もなく、太閤様の出生地なので)何のよすがもないとなると、大門を入つて両側に美しくならぶ雪洞にも、たゞもう人肉の切売りといふ、現実の血腥ちなまぐさいやうな感じをそゝられるだけである。
汽車の煤煙で化粧された名古屋駅近くの明治橋を渡つて、一直線に単線電車を凡おそそ十五分ほど乗ると、大門へ着くのだが、少し威勢のよい足なみで突き進むとやがて田圃へ出てしまつて、検黴病院のいかめしい建物が、目に痛いほどの寂しさを与へる。歌川広重の『新吉原』は、さびしさそのものではあるが、なほ且つその底には、伝統的な一種の言ふに言へぬ甘い情調がかくされて居るけれど、中村遊郭には、そんな気分など、薬にしたくもないのである。
不景気の影響を受けてか、昨今のさびれ方は甚だしいものだが、これはあながち、不景気の影響ばかりではないやうである。その証拠には、前にも述べたごとく、遊郭内のダンス・ホールの繁昌でもわかる。要するに、このやうな遊郭は、もう、新時代には適せぬのだ。いつそ、懐古趣味を発揮させようとするならば、うちかけを着せて張店を出すがよい。張店といへば、昨年一時そんな噂がひろがつて、政治問題とされたことがある。筆者は公娼存置にも、張店にも賛成だけれど、遊郭そのものゝ改良は、早晩行ふべきだと思つてゐる。
中村遊郭の振はぬのは、べらぼうに高価なことも其原因の一つであるらしい。尤も、それは大店だけのことだが、市内で、比較的廉価な遊びが出来るものだから、わざ/\遠くまで出張に及んで高い金を払ふ必要がないといふ論者が可なりに多い。誠にそのとほりである。市内に於けるいはゞ私娼、乃至みづてん芸者の跋扈ばつこは恐ろしいもので、筆者の手許には、相当の材料も集つて居るけれど、これはスケツチに用のない事、沈黙を守つて、蓋をあけないことにしよう。
午前零時といへば、遊郭は最も繁昌しなければならぬのに、その頃試みに中村遊郭内を散歩して見るがよい。素見ひやかしの客があちらにチラリ、こちらにチラリ、ところ/″\にタクシーが横づけになつて居て、まるで、猖獗しようけつな伝染病流行当時の都市を見る様である。一つしかない名古屋の遊郭だ。こんなことに力を入れるべき性質のものではないが、もつと繁昌してくれなくては、名古屋の御城とともに、今に民衆の心と没交渉になるかも知れない。

小酒井不木「名古屋スケツチ」

蝶々トンボのコンビで何とか舞台がつとまるようになった。あいかわらず名古屋の庄村さんを頼りにしていたが、復興しつつあった各劇場からも、たまには声がかかるようになった。
やっと父の家から出て、近くにあるガード下のうどん屋さんの二階に間借りをした。といっても四畳半と二畳だけの二間きり。貧乏のどん底だったが、七輪におナベでご飯をたき、近くの市場に買い物にいくという、夫婦二人だけの水入らずの日々だった。
昭和25年(1950年)の夏ごろ、巡業の合間に家に帰っていた。といいうより仕事が無くて家で待っていたのだが、ついにお金が底をついてしまった。「庄村さんとこにでも行ってみよか」と、小銭をかき集めて名古屋までの片道切符だけ買って出かけた。
あいにく庄村さんは出かけて留守。泊るにはカネは無し、食べるにもカネは無し。家の前や近所をウロウロしながら待ち続けるうちに、やたらとお腹がすいてきた。近くの橋まで来ると、橋のたもとのまんじゅう屋からいいにおいがしてくる。財布をひっくり返したら、三つ四つかえるお金が残っていた。「後はどうにでもなるがな」と、まんじゅうを買ってかぶりついた。
日が暮れ、灯がともったが、行くあてもない。やっと庄村さんが帰ってきたのは、夜中の十二時近く。「そんなとこで何しとるんや、入れ、入れ」と家に上げてくださった。すぐに二万円貸してくれて、「その代わり来月からは、しっかり働いてや」と言った。
当時、二万円といえば大金だ。二人とも有頂天になってしまった。六十歳過ぎの庄村さんの温顔が、本当に地獄で会った仏様のように見えた。後日、庄村さんが引退興行をするとき、ラジオなどでやっと名の出はじめた私たちも駆けつけると、涙を流して喜んでくれた。貧乏だったが、名古屋での思い出は数多い。何でも知りたい何でも見たいという好奇心いっぱいの私は、昔から名高い中村遊郭を見てみたかった。鈴夫君も入れて芸人仲間五、六人で行くことになった。「鈴夫君にも女性が一人つくねんで。それでもええねんな」と仲間が念を押した。暮れも押し詰まった十二月三十日だった。
ワイワイと中村遊郭に繰り込んだ。初めてみる紅灯のちまたは、思っていたより美しく印象的で一人キョロキョロしていた。妓楼(ぎろう)でみんなで飲んだが、その雰囲気も楽しかった。やがてお開きとなり、それぞれ相方と一人一人消えて行く。私も一つ部屋を取ってもらったが、もちろん相方は無し。同じ屋根の下、別の女性といる鈴夫君への焼きもちは不思議と感じなかった。
真冬というのにこたつ一つ無い部屋で、せんべい布団にくるまって寝入ってしまった。ところが翌朝、風邪で四十度からの熱が出た。すぐお医者さんが来てくれたが、二、三日動かしてはいけないという。一緒に行った連中も気を遣ってくれたけれど。仕事はあるし、明日は元日なので大阪に帰らなければならない。
鈴夫君と二人で中村遊郭で年越しをすることになった。看病してくれたのが鈴夫君と彼の前夜の相方の女性というのも、おかしな縁だった。大掃除をするからと移されたのがあんどん部屋。昔、病気の女性が一人寂しく死んで行ったというあんどん部屋で寝ていると、やがて除夜の鐘が聞こえてきた。身につまされてつい涙をこぼしてしまった。

ミヤコ蝶々「私の履歴書」

「弁天様がいない」-。名古屋第一赤十字病院(中村区道下町3)の敷地内にあった小さな社が、建物の全面的な建て替えに伴い、姿を消したらしい。そんな話を小耳に挟んだ。そもそも、なぜ弁天様が県西部の中核病院に祭られているのか? そして、どこへ行ってしまったのか?
「社は職員食堂の中庭にありました」。病院応接室で企画課長の上之山和繁さん(55)が少し前の病院の航空写真を机に広げた。指さす先は低層の建物。今は新しい12階建ての西棟が立つ場所だ。
もう一枚には一抱えほどの社。弁天様だ。年1回の神事のスナップ写真で、供え物が所狭しと並ぶ。中庭への出入りは誰でも自由にでき、お参りに来る人もいたという。
最近まで弁天様がいたのは間違いないようだ。いったん、歴史をさかのぼろう。
「中村区の歴史」(県郷土資料刊行会)や「病院40年誌」によると、大正時代に大須の遊郭が中村に移転する際、湿地をかさ上げしようと近くの土を取った。そこに「遊里ケ池」ができ、世をはかなむ遊女の投身自殺が絶えなかったらしい。
そこで、琵琶湖の竹生島から、七福神で唯一の女神である弁天様を迎え、池の真ん中の島に祭った。弁天寺の誕生だ。昭和に入ると池を埋め立て、中村日赤が開設された。やがて病院の拡張で寺は近くの中村区藤江町3に移転し、病院敷地には分身を残すことに。これが写真の社に当たる。
さて、開設して70年余が経過する中村日赤。5年ほど前に始めた全面的な建て替えは終わったばかり。弁天様は? 「弁天寺に一時的に預けてあります」と上之山さん。2006年3月、おはらいをした上で“引っ越し”が行われていた。
早速、寺へ走った。「これじゃよ」。住職の高橋栄光さん(73)が棚から小さな木箱をそっと手に取った。中には琵琶を抱えた木彫りの弁天様。飾り気はないが、優しい印象を与える顔立ちに見える。
驚いたのはご本尊も祭られる棚の下。高橋さんが床板をめくるとコンクリート製の床下が現れた。水たまりが見える。「弁天様は水の神様だからね」。蛇口をひねると床下から水が噴き出した。
病院の新しい“住まい”にも池があるのだろうか? 再び病院へ行き、設計図を見せてもらう。やはり。小さな池に架かる石橋を渡った先に弁天堂が予定されていた。西棟の北西角に11月ごろまでに整備される。
弁天様が見守ってきた地域で、住民の健康のために日夜、力を尽くす中村日赤。両者ともに建て替えで気分一新となるが、今後も地域の頼れる存在であり続けてほしい。

中日新聞【なごや特走隊】

僕が遊郭跡や旧赤線地帯を探訪するようになったきっかけは、かねてからその栄枯盛衰ぶりを聞き及んでいた中村遊郭跡を訪れたことからでした。
映画やドラマで見聞きしていた赤線のイメージや遊郭のイメージをそのまま、建物の豪華絢爛さと、その凋落ぶり、宗旨替えでソープランドになっている店と生活の場としての在り様のコントラストに、僕は夢中でシャッターを切っていたのです。

あちこちの、そういった場所を探し歩くうちに、やはり中村遊郭跡の規模は相当のものであることに気付かされます。

上の地図は、現在の中村遊郭跡、中村区大門近辺の地図です。見てお分かりいただけるように、見事な「廓」形状の町割りになっています。
中村遊郭は、外周を幅一間の堀で囲み、四隅の道は斜めにすることで廓の外周を不等辺八角形とし、外部からでは中の様子をのぞくことが出来ないようになっていたといいます。さすがに堀は残っていませんが、路地などに形を変えて面影を辿ることはできそうです。

名古屋に長く住んでいる人なら周知の事実でしょうが、中村区の駅裏(名古屋駅の西側、ちょうど中村遊郭跡地の辺りから名古屋駅にかけて)は、「あの辺はちょっとねぇ...」とされていた場所です。
実際、防犯カメラが四方に設置され、窓もないような個人所有と思われる低層のビルがたくさんありますし、歩いている人もひと目でそれ関係かな、と思わせる出立ちの方がいらっしゃいます。

「写真を撮っていたら、あきらかにそっち関係の人に叱られた」とかいう話は聞きますが、僕は今のところそういった事にはなっていません。
webで「中村遊郭」と検索すればヒットするサイトの数を見れば分かるように、写真を添えた探訪記録が多くあり、それだけこの地を訪れて写真を撮る人がいるという事で、あまり気にしなくなっているのかも知れません。

大正12年に、旭廓から移転した中村遊廓は、日吉(ひよし)・寿(ことぶき)・大門(おおもん)・羽衣(はごろも)・賑(にぎわい)の5つの町からなっていたため、五町街(ごちょうまち)、または五丁町(ごちょうまち)とも呼ばれたそうです。
土地31620坪(104346平方メートル)を整地、119700余円(当時)を投じたとされていますが、当時遊郭は愛知郡中村で、名古屋市に編入される前であり、周辺は長閑な田園地帯であったそうです。

写真の建物の奥にJRセントラルタワーズが見えます。
現在は名古屋市の中心部と言ってもいい場所になっています。

昭和12年当時、この頃が中村遊郭の最盛期と言われていますが、当時の厚生省の調べによれば、全国の4.5%の娼妓が中村に集中していたといいます。
また遊行費でも日本一と言われ、坪庭を備えたコの字やロの字型の優美な建物と相俟って、全国的にも著名な遊郭であったとされています。

写真は羽衣町、廓の中心辺りから「ピアゴ」を望む辺り。建物の巨大さがお分かりいただけるでしょうか。

先にご紹介したことのある「聞書遊廓成駒屋 不思議な場所のフォークロア」で、インフォーマントの「お秀さん」の回想録の中で、

「それともちろん、ごらんのとおりの設備が、いまの時代の商売感覚からはズレとるんだね。遊郭の頃の建物がなまじ立派じゃったばっかりに、建物をそのまんまにとりあえずの転業のつもりで私らはズルズルとトルコをやってきたんですもの。トルコをやるんだったら、遊郭時代とまるっきり別の商売感覚でやらねばいけん、ということは私らにも、もうようわかっている。この中村でも、代がかわったり、新しく出来るトルコは、建物から設備を一新して近代感覚でやってなさるわの。じゃが、それは、ほんのわずかです。
そうです、それには理由もあるんだわ。
あんたも知ってのとおり、遊郭がなくなったのが昭和三十三年ですわの。中村ではあのとき、ほとんどが、建物はそのままに旅館かトルコに転業しとるわいの。放っぽらかして廃墟になってるところもあるが…、まあ、ほとんどが旅館かトルコ。
ここ(新金波)も、建物の骨組みは、昔のまんま。部屋も畳をあげて、そこに防水の床をはって、湯ぶねを置いただけ。あとは、壁をビニールクロスにしたり、コンクリートの廊下をタイルばりにしたり、まあ、ところによっていろいろじゃが、結局、どこもが木造部分を強化したうえで、表面をはりかえたという程度なんです。
なぜかといえば、よその遊郭のことはよう知らんが、中村遊郭は、昭和三十三年の売防法(売春防止法)のときに組合員がみんな集まり、組合長の久米さんを中心にして善後策を協議した事があるんだわの。そのとき、売防法は恒久的なものではない、一時的な暫定措置じゃろう、やがて解除されるにちがいない、という意見が大半をしめたんですわいの。それで、とりあえずは名楽園組合というとった遊郭の組合組織を新名楽園として、また陽の目をみるようになるまでをしのいでいこう、と考えたんです。
それで、建物を売却したり、とりこわしたりして転業するよりも、その暫定措置と判断したあいだ、このまま建物を利用して、一時的な転業をはかるのが得策じゃろう、と、ほとんどの人がそう考えたわけですがの。中村には、昭和になってからの新開地じゃから、建物もしっかりしとるから…。」

という述懐があります。
「お秀さん」の意見は至極真っ当な意見で、時代に乗り遅れたという感覚は決して間違いではないと思います。
実際、名古屋駅から電車で30分ほどのところにある岐阜・金津園はソープ街として全国に名を轟かせましたし、遊郭の歴史や内情に詳しいからこそ時勢に乗り遅れたという話は間違いではないと思います。

ですが、もうひとつ要因があるよう僕は思っています。
それは戦災で名古屋が完膚なきまでに焦土と化した事。そして、復興の名の下に行われた意識のすり替えです。
焦土と化した…というのは、日本全国程度の差こそあれ、都市部では、ほぼ万遍なく在ったことだとは思いますが、名古屋はシンボルともいえる名古屋城を焼失したことによるショックから立ち直るために過剰なまでの「都市復興計画」を実行しました。
それはまるで戦争の記憶を消し去るような事業であり、戦前戦中にあった物を尽く取り除き、道路を通し、住宅地を造り、町を造りなおしていったわけです。

以前にも書きましたが、日本人は忘れることによって、あるいは強制的に記憶をリセットすることで、壊滅的な打撃から立ち直る術を得てきました。
それは先の大戦のみならず、戦国の世においても、自然による災害においてもそうです。
経験者は口を閉ざし、その痕跡を拭い去り、一時的に「記憶喪失」になるのです。

中村遊郭も例外ではなかったのではないかと思います。
戦後、公娼制度の廃止から売春防止法施行に至るまで、それまでは「公然の悪所」であったはずの遊郭は、周囲の目が「隠密の悪所」と看做しはじめ、昭和33年からは「違法行為」になるに至り、意識の下で戦争の記憶と共に消し去ろうとしたのではないかと思うのです。

無論、では岐阜はどうなのか、他所にもあるソープ街はどうなのかという話にもなるでしょうが、やはりそこには「お秀さん」が述懐したような、業者の立ち回り方や立地の条件などの要素が絡むのです。中村遊郭は、あまりにも住宅街と隣接し過ぎていたのではないかと考えています。

日本の都市部の戦後は、まさに「スクラップ アンド ビルド」の歴史です。
その徹底ぶりは、今僕が考えると一種病的ではないかとすら思えます。
戦前と戦後では町が一変していったのです。言い方には語弊があるでしょうが、焦土となってしまったのが、いいきっかけにすらなったのではないかと思えます。
これも何度か触れていますが、行政が歴史的な建造物や遺構に冷淡で、積極的に保護しようという動きが出始めたのは最近の話で、僕の自宅の近隣にある古墳群も手付かずで荒地のままになっている場所が多くあるのです。

「負の歴史」という言葉がありますが、何を以って「正負」を判断するかが重要です。
戦争に負けたから、その時代にあったもの全てが「負」なのか、といえば、それは決してそうではないはずです。寧ろそれをきちんと残すことも歴史であり、後世に対する責任だとも思うのです。あったことはなかったことにはできないという事です。

遊郭の路地を中学生のお嬢さんが歩いていきます。
その路地は、ほんの60年ほど前までは悲喜交々の歴史があった場所であるのを、彼女は知る由もないのでしょう。

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