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父について

父親について語る。
父は戦前生まれの男だった。
思春期を戦争の渦中で過ごし、長男として3人の弟妹を育てた。
「育てた」と書いたのは、祖父があまり生活力のある人ではなかった為だ。
そのせいだとは一度も言わなかったが進学はせずに家計を支えるために働き始めた。
祖母はぼくが生まれる前に亡くなった。
もともとあまり身体の強い人ではなかったらしい。
若くして亡くなったせいか、父は事あるごとに「オフクロ、オフクロ」と、よく祖母の事を話した。
生まれた頃に同居していた叔父や叔母が結婚して独立すると、実家は祖父と両親とぼくの家庭になった。
そんな経緯からなのか、父は祖父にきつく当たる事が多かった。
当たり前だが、ぼくには祖父に何の恨みもない。
とても優しい当たり前の祖父だったから、そんな祖父にきつく当たる父が理解できなかった。
中学くらいの頃、母に一体どうして父は祖父にあんなひどい事を言うのか、と聞いた事があったが母は言葉を濁すだけだった。
ぼくは軽い混乱のまま育ち、その過程で父を快く思わなくなった。

父は大変に写真を撮るのが下手な男だった。
幼いぼくを写したであろう写真は何枚もあるけれど、そのどれもがことごとくブレていたりピントを外したりしていた。
カメラはハーフサイズのオリンパスペン(Fとかの一眼レフではなくゾーンフォーカスのもの)だから普通に撮れば普通に写るものなのだけど、変に力むのかまともに写っているものはほとんどなかった。

高校に入った頃、ぼくは今で言う五月病のようになり学校へ行かなくなった。
そんなぼくに父は感情のままに叱りつけた。
学校に行かないなら出ていけ、近所に体裁が悪いと、そんな内容だったと思う。
もちろん本心ではない。
だが、この言葉はぼくの父親への不信感を確実なものにした。
この男はぼくに愛情など持っていない。
その日から高校生の間、ぼくは父と口をきかなかった。

大学に入る頃、ぼくは将来の事を父に相談した。
父とは意見が真っ向から対立した。
ぼくは自分で言うのも何だが聞き分けは良い子どもだったので、その時ほど父に対して激昂した事はなかった。
それまでの思いであったり、自分の意見を聞き入れてもらえなかった事も相まって、父に対して、ちょっと書くのも躊躇われるくらいにずいぶん酷い物言いをした。
掴み合いになる寸前で母が割って入った。
父とぼくを引き離した後で、母はぼくに「あんたが今お父さんに言った事は、お父さんがお爺さんに言ってた事よりも酷い」と言った。

これは後から聞いた話だが、父はそれからしばらく塞ぎ込んでいたと言う。

さすがに言い過ぎたと思った。
ぼくは不承不承ながら父に侘びた。
父はジロリとぼくを見た。
それで「自分の子が可愛いない親がどこにおる…」と小さな声でそう言った。

そんな父をぼくは孤独死させた。
東京・名古屋の距離を言い訳にしてはいけないと思うが、実際に遠因はそれだった。
前年の暮れに母を亡くしてから、父は見るからに元気をなくしていた。
母は長く入院していたが、その見舞いに行くという事自体が生きがいというか、日々の糧になっていたように思う。
それをなくして父はその先をどう過ごしたらいいのか分からなくなってしまったのではないか。

週に一度は電話をして安否を確認していたが、とある月曜日の朝に電話してみたら出なかった。
胸騒ぎがして仕事を放り出して名古屋に向かった。
実家に着いて玄関を開け、居間の扉を開けたあの瞬間のことは生涯忘れないだろうと思う。

まだよかったのは真冬で死後24時間程度だったこと。

父の元気がなかったことは正月に母の四十九日で帰省した時に分かっていたので、暖かくなったら東京に呼ぼうと家人と話していた頃だった。

近所には昔からの顔馴染みの人がたくさんいた。
葬式の時に父との色んな話を聞いた。
「ウチにおると、まだひょこっと(母が)顔を出すような気がするわ」
「(背負っていたリュックについて)これよ、息子が手が空いとらんと転んだ時に危ないでって買ってくれたわ」
「今日はカレー作ろう思ってよ。あれは煮込めば煮込むほど旨いだろう」
そんなことを話していたらしい。

どんな思いで1人分のカレーを作っていたんだろう。
一度だけ突然何の用もないのに電話がかかってきた事があった。
ちょうど出かけるタイミングだったので出られず、かけ直して何かあったか?と尋ねると、ああ用はない、忙しいならええわと言っていた。
言いたい事なら、きっと山のようにあったはずだ。

最近家人に「本当にお義父さんそっくりになってきた」と言われる。
先日床屋に行った時に鏡に映った自分を見てドキリとした。
まさに父そのものだったのだ。
まあぼくは禿げてないけどね。

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