猫飛び横町(2012年11月10日)
これは明治三十五年に刊行された「名古屋と伊勢」の中にある中原指月の「名古屋の風景」という一文です。
この「むらさき川」という川。漢字では「紫川」と書くのですが、若宮大通りが作られた際に埋め立てられてなくなってしまった川だそうです。
広小路に沿うように流れがあり、伏見の辺りで南に逸れ、若宮大通りを流れて堀川に注いでいたらしいのですが、清流などというものではなく、生活用水、どちらかと言えばどぶ川に近い流れだったようです。
若宮大通りを作る際、江戸期と思われる護岸工事の石積みの跡が見つかったと聞きます。
西大須の若宮大通り沿いは、やや傾斜の上にあるのが見て取れます。
この傾斜の頂上が「旭廓」だったのです。
泉鏡花の「紅雪録」に「紫川にはまる」という表現があります。
これは旭廓に馴染みの女ができたことを言う隠語であり、紫川は旭廓の俗称であったことを示しています。
こういった俗称は街の渾名であって、良い悪いの分別だけではなく、人々に如何に愛されていたかを ( または忌み嫌われていたか ) を示すものです。
東京のアメ横や横浜の中華街、横須賀のドブ板。
正式な町名で言ってもピンとこないのですが、こういった渾名で言われれば何処のことなのかは直ぐにわかります。
現在は伏見通りの下に埋もれてしまっていますが、旭廓のなかに音羽町という街がありました。
大須観音の北、一本目の東西の通りが若松町、二本目が花園町、三本目が音羽町になります。南北の通り、常盤町と富岡町の間にある街です。
二階の庇から向かいの家の庇へと猫が飛べるような狭小な街、この狭い街が「猫飛び横町」と呼ばれていました。
明治四十四年に刊行された「花くらべ」( 花競会刊 ) という遊廓細見記に「猫飛びある記」が載っています。
この「御園にぬける小路」が「猫飛び横町」です。
もっとも「猫飛び横町」とは渾名であるので、その地域は明確ではなく、「大体その辺り」がそのように呼ばれていたようです。
戦前には音羽町のみならず、近隣の小路はそのように呼ばれていたとのことです。
これは「大須大福帳」に書かれた須崎神社の提灯祭りでの旭廓の様子です。
想像するしかないのですが、さぞ美しい光景だったと思われますね。
街を潰して道路を通すことが悪いとか、記号のような町名にしてしまうのが味気ないとか言うつもりはありませんが …。
うーん …。
同じ場所に立ってみても、往時の賑わいなど想像すら難しいのです。
大須自体は大変に賑やかなのですが、まぁ、何というか「教科書的」な賑わいなんですね。
街の空気というのは少なからずあると感じてはいますが、それとて何れ紫川が埋め立てられたようになくなっていくのでしょう。
あれほど好きだったのに、最近では居心地の悪さだけが先走ります。
ま、年寄りの戯れ言と …。
【2023年11月7日加筆】
これを書いたころは遊郭跡や赤線跡を訪ねてあちこち歩いていたのである。
名古屋にも代表格な「中村遊郭」の他に数箇所あった。官許の遊郭ということになると江戸時代まで遡り、当時に最初に設置されたのが西小路・富士見原・葛町であった。
設置後縮小が何度かあり、一時期は官許の廓はなくなったのだが、イリーガルな場所はあったとされている。
明治に入り「北野新地」という大須観音裏手の旅芸人などが宿泊する宿を集めた地域に遊女を置くところが増え始め、そして政府が追認する形で「旭廓」が出来上がる。
中村への移転や戦後の赤線指定などを経て、昭和33年の売春防止法施行により政府公認の遊郭は姿を消す。
そんな場所が市内に数箇所あったのだ。
そこは現在どうなっているか。
旭廓の場合は中村遊郭へ移転したこともあり、ほとんどが国道19号線の下になって名残はほぼないのだが、他の赤線跡は訪ねて行くと当時はまだその名残を見ることができた。
現在は老朽化による取り壊しや区画整理などにより次々と姿を消し、国内屈指の規模を誇った中村遊郭も、ほとんどその栄華の残滓もほとんど見られなくなったと聞いている。
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