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高瀬舟(2012)
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森鴎外による「高瀬舟」はお読みになった方が多いのではないだろうか。
安楽死についての問題提起だとしたりする解説を能く見かけるのだけれども、僕は以下の一文が印象深い。
庄兵衞は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衞は氣が附いた。
庄兵衞は今さらのやうに驚異の目をみはつて喜助を見た。此時庄兵衞は空を仰いでゐる喜助の頭から毫光がさすやうに思つた。
僕も何時の間にか折り返しを過ぎた。
不惑と言う様な年齢になっても、一向に心が穏やかになる事が無い。
今更己の人生に言訳を繕ってみても詮方ないが、矢張り僕は喜助ほどの器量も無い。
常に枡一杯の欲を持ち、それで足らなければ、更に大きな枡を欲しがる。
全く切りの無い話である。
これを無間地獄とすれば浮世は当に地獄の沙汰となり、さすればそれも金次第となる。
そんな風に業を重ねて来た。
愚かしくも悲しい半生である。
木屋町を通る度、高瀬川の川面に立つ細波に吐息を吐く。