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近藤の首(2014年)

岡崎は松平氏発祥の地であり家康が生まれた土地であるので、何かと「徳川氏由縁」の物が多い。
まァ、これは良いとか悪いとかの話ではないし、こんなでもなければ取り立てて特徴のある街ではない気がする。
こちらに越して3年余りになるが、そんな「徳川氏由縁」はあちこちで拝見した。

少し前に「岡崎に新選組局長の近藤勇の首塚がある」と言うのを聞いたのである。
鳥羽伏見の戦いで敗れ敗走する新選組は千葉・流山に辿り着くも、新政府軍に囲まれ、近藤は自刃を覚悟するが土方に思いとどまるように説得されて、大久保大和として投降。
新政府軍の本営があった板橋に連行され斬首。
胴はその地に埋葬され、首は京都・三条大橋に晒されたのだが、その後首の行方は不明である...。
と、ここまではよく知った話ではある。

その首塚があるという岡崎市・法蔵寺の縁起によれば、新選組同志が三日目に首を盗み出し、近藤が生前に懇意であった新京極裏寺町の称空義天大和尚に埋葬を依頼する。
しかし、和尚は、三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしたとある。
当時は大々的に新選組を祀る事は出来ず(国賊であったので)、台座のみに自然石を置き土を被せて無縁仏を装っていたと言う。
昭和33年になって京都・誓願寺で、この地を首の在処と示す記録が見つかり発掘したところ台座や遺品などが見つかったので、ここを近藤勇の首塚としたと言うのだ。

かなり信憑性が高いと言えるが、何しろ長い間行方不明とされてきた物であるのだけに、実際に掘り返してみないと何とも言えないと言うのが本当の所だろうが、台座には土方の名もあり、これは一見の価値ありとばかりに行ってきた。
フィルムがカブっている所があり、何やらおどろおどろしい写真になっているのもあるが、しばらくして近藤勇・首塚はあった。

この法蔵寺は家康が幼少期に手習いに通ったという由緒がある寺で、硯や草紙掛けの松などが残されている。
本堂扉には葵の御紋が誇らしげにあり、奥には見事な造りの東照宮もある。
真偽の程には若干の疑問があるとは言え、東照権現を祀る寺に葬られているのは、最後まで徳川に仕えた新選組局長としては相応しいのではないか、と思ったのである。

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