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ATMANの暗黒日記パート③

レーベルを辞めた後、レーベルオーナーとケンカしたその日に仕事を失くしてしまったので、ぼくが直ちに取った行動は、郵便局は辞めずに、レーベルの収入分を取り戻すべく、プラス、新たな他の仕事を探すことであった。

本来であれば、もう少し時間を持ち、再度、就活するなど、太い収入源1本に絞るなどすればよいと思うのだが、ぼくの場合、転職に継ぐ転職で、妻に精神的負担をかなりかけてしまっているという思いから、最低限、収入だけは減らしたくない、という強い想いからの行動だったと思う。

地元の氏神様に、

「なにかレーベルに代わる新しいお仕事を紹介してください」

と、お願いに上がると、すぐ地元の小さな会社を紹介してくれた。

そこは建物を建てる前の地鎮祭のテントの設営をするだけという、非常に珍しい会社だった。

そこの社長は、雇われさんではあったけども、ネットの募集記事にも書いてあった通り非常に優しいひとで、これも面接にて話が合い、即、採用を頂いたのだった。

地元の氏神さんって本当凄いなぁ、ありがたいなぁと思いながら、本当にそこは地元なので、最初は歩いて出勤していたのだが、歩くと20分くらいにはなってしまったので、近くのドンキで1万円の折りたたみ自転車を買って通勤していた。

そこの会社は、基本、社長1人。そして、ぼくのように個人事業主というか、請負の人が3人くらいいるような小さな組織だった。

で、その会社でやることといえば、外部からテント設営のオーダーが入り、地鎮祭が行われる当日そこにテントを張り、神棚、竹の結界張り、山の作成(地鎮祭で使う砂の山)、パイプ椅子と手水(手を清める水)など、地鎮祭で必要とされるものを設置するという非常にシンプルなものであった。

ぼくは早く独り立ちしたかったので、これも真剣に取り組んだ。

自分でいうのもアレだが、比較的飲み込みはいい方なので、すぐに覚えて独り立ちがはじまった。

テント設営とはいえ、備品が結構あり、それらをワゴンに積むのが結構ひと苦労だった。

まずはテント。テントを留める杭。そこに繋ぐロープ。そして、テントに張る紅白幕。そして、竹の結界用の荒縄と荒縄につける紙垂(しめ縄とかについている白いカミナリのような形に折った半紙)と竹を支える長い鉄の杭。山用の砂。そこにお客様が使う木のスコップと鍬。テントの下にひくブルーシートとその上に置くパイプ椅子。手水セット・・・

このどれもがなければ、地鎮祭ははじめられない大事なモノばかりで、前日のセットには非常に気を使った。

そして、この仕事で1番特殊だったのが、近くの許可を得た土手にある竹やぶから、結界の四方に使う竹を自分で刈って来るというものであった。

これだけはちょっと毎回嫌だったな(笑)

夏は蚊だらけだし、犬のウンコもあったり(笑)。

ひとり土手の竹やぶに入って、竹を刈って出てくるというのは、まわりが土手で犬の散歩や野球をしてる中、かなり、異色だったと思う。

土手の竹やぶから、竹を担いで出てくるんだから(笑)

そこで、必要な分だけ竹を伐採し、しおれないよう水をかけ、ブルーシートに包み、車に積んで事務所に帰るのだ。

基本、地鎮祭というのは、午前中にやるもので、だから、朝が早い。

設営には約1時間半くらいかかるので、大体現地には8時までには入る為、家をでるのは6時くらいになる。

それでも、朝の感じが非常に気持ちよかったのを今でも覚えている。

さぁ、今日もはじまるぞ〜みたいな雰囲気で、ひとりバンのキーを捻ると、独り立ちした職人になった気分で、今日はどんな現場なんだろう、なんて、仕事を愉しんでる自分がいたりした。

現場に着くと、まず、方位を測る。

そして、神棚の後ろを北とし、南向きにテントを設営するのだ。

まずはテント。これは折りたたみになっておりひとりで設営できる。テントの位置を決め、その下にパイプ椅子を置くためのブルーシートを敷く。

そして、テントの四方をロープで地面に固定する。

テントに紅白幕を設置し、中の設営に入る。

神棚のまわりに張る、竹の結界づくり。

まずは竹の支え用の1mくらいある鉄パイプをハンマーで四方に打ち込む。

そこに竹を設置し、四方に荒縄を巡らせ、そこに紙垂を付ける。

祭壇の前に山をコテで作成し、そこに、木のスコップと鍬を用意する。

そして、お客さんが通る道としてのグリーンシートと座る為のパイプ椅子の設置だ。

最後に、テント入口付近に設置する、テーブルと手水を用意する。

手水の桶に自分が持ってきたポリタンクから水を入れ、手を拭くための半紙を20枚くらい折りたたみ、お客さんが地鎮祭でお神酒を呑むためのカワラケを用意する。それがすべての工程だ。

ぼくが1番これらで気を使ったのが、山づくりの工程だ。

やはり、社長である師匠はこれをものすごく綺麗な円柱の山に仕上げる。

この仕事の醍醐味はここにあるといっても過言ではない。

山はすなわち、その建物を立てる土地を意味し、そこに建物を立てる施工主が、先程の木でできたスコップと鍬でこの山を削る振りをする作業があるのだが、これが地鎮祭で1番のクライマックスとなるところで、ようは山は御神体なわけで、それを創る作業、そんな大それたことを素人のぼくがさせてもらっているなどと思っていたからだ。

まぁ、端的に砂遊びがおもしろかったというだけの話かも知れないが(笑)

そんな仕事を続けながら、さらには夜にはまだ郵便局の仕事は続けていたわけで、そこでは例のオサは辞め、知らないうちに自分がリーダーのような存在になっていた。

彼の後を継いだというかたちだろうか、彼直伝のやり方をぼくが伝授しただけの話だと思うのだが、5年もすればそこでは古株、自然とそういう立ち位置にはなっていた。

だから、仕事もある意味気持ち的には楽ではあったのだが、5年もダブルワークをしていた体には相当の負担が来ていたのだった・・・

ある日の夜、郵便局の夜勤時に、いままでに経験しなかったような腹痛に襲われ、何度もトイレに駆け込んだ。

駆け込んだが、肝心なものが出ない・・・

それを繰り返しているうちに、あまりにも痛いので、最期のちからを振り絞り力んだ時に、ドス黒いものがかなり大量に出てきたのだ・・・

郵便局のトイレの明かりは経費削減のため、かなり暗く、とにかくドス黒いものがたくさん出て来たという認識しかできず、それでもやはり腹は痛く、脂汗をかきながら、なんとか、時間まで勤め上げ家に帰ったのだが、家に帰り、やはり、腹が痛いのでトイレに入ると、出てきたのは、なんと、大量の血だったのだ・・・

下血・・・

昨夜、郵便局のトイレで大量にお腹からできてきたものは、大量の血だったのだ・・・

それを見て、これはただごとではないということで、急遽その足で地元の病院へ行き、症状を説明すると、そのまま車椅子に座らされ、強制入院となってしまったのだった・・・

生まれてはじめての胃カメラと大腸カメラ。

両者それほどきつくはなかったが、初めて見る自分の腸内。

血が出ている場所があった。

虚血性大腸炎とのことだった・・・

人生2度めの入院である。

1度目は小学生の頃、大人用の抗生物質を試しに飲まされ、様子を見ていたらアナフィラキシーショックとなってしまった時で、この時は点滴日帰りで帰れたのだが、今回は1週間入院だという。

ここでぼくはゆっくりすればいいものを、安静にしてるだけなら家でもできるだろと医者を説得し、3日で出てきてしまった。

ようは、貧乏性なのである。

病気になればお金は稼げないわけで、これ以上、家族に、迷惑をかけたくない、そういうこすっからしい想いからだ。



だから、こんな現実を自分に引き起こしているというのに・・・



ぼくはこれを機に、仕事1本に絞るべく、また新たな道を探すのであった・・・

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