見出し画像

真剣に、怒っています。2/8(土)に、詩の書き方教室の1日講師の件で。

びっくり、びっくりなことがありました。

このブログでも、何度かお伝えしたように、僕が属する兵庫県現代詩協会主催の、詩の書き方教室へ僕は1日講師を頼まれました。

その内容については、もう何ヶ月前から、時間と対象、やり方や講師の裁量の自由度などを、なんども紙面でお伝えして確認していたのに、
昨日、担当の方から電話があって、当初聞いていた、2時間枠から、裁量時間が1時間になったこと。
残りの1時間半に、受講者の持ち寄り詩の合評会があり、司会は別の人が行うことを知らされました。

「えっ!?」

今まで、打ち合わせしたことは、何だったの?
口頭じゃなく、紙面で確認したのですよ。

しかも、参加者は、僕が頼んだ友人1人だけを除いて、経験者ばかりなので、合評を優先したい、と。

もちろん、主催はそちら(担当:幹部)なので、(僕はヒラの一般会員にすぎず、役員でもない)
従いますが、なんかすごく嫌です。
それって、まるで石破総理並みの裏切りに思います。

僕だけのことなら、如何様にも我慢しますが、
僕は初心者も含めたプログラムを組み立てていたし、それは経験者にも有益なものなんですが、
僕は普段、詩を書かない友人に、人数が足りないから、と無理に頼み込んできてもらってるんですよ。

その友人にも、いきなり合評を言わせるんですか?

だから、何度も対象者レベルを尋ねて確認したし、そちらは初心者参加「も」目的に、と言われましたよ。
人数が集まらないから、初心者にも声をかけて欲しい、と頼んだのは、そちらですよ。

呆れて、ものが言えない。
まして、講座まで2日前のこの時期になって、それを言いますか?

参加する友人には、謝りの電話をすぐ入れました。
ほんと、申し訳ない。

(また、いろいろなところで、初心者向けだから、当日いきなり参加もOKですよ、と、僕は喧伝してしまっているのに)

そもそも、僕は単純に合評しての〈書け書け式〉で、「詩(文学)が上手く(書けるように)なる」とはこれっぽっちも信じてません。
もちろん、受講者があるレベル以上に達していたら、上手くなりますよ。
でも、それって、合評主催者がすごくハイレベルの「育てる力量」(創作の力量だけではなく)があってのことですよ。
また、受講者が高度な批評力や研鑽力があっての、ごく一部の稀なケースだけです。

真剣に怒っています。

その担当の方へはもちろんですが、世の中に〈書け書け式〉の教室ばかりが充満してゆく現状に対して、です。
そのやり方だと、やる気があってチャレンジした人に「ヤッパリ、自分には文学の才能がないから書けない」と思わせて、遠ざける結果ばかりになる場合が多い。
そのことに、才能天授主義に、僕自身が耐えられません。

だって、20代の僕がそうやって、失望して、小説も詩も書くまい、と決意した過去がありますから。

なんで、その僕がよりによって〈書け書け式〉の補助をやらないといけないんですか?
これ、これ、こういう内容ですよ、応募時から、内容の趣旨もやり方も丁寧に紙面で説明しているのに?

じゃあ、今回のものは、僕自身の持つ某教育賞の最優秀賞のスキル全開で、前半1時間は、友人向け主体で密度の濃い形でやらせてもらいますよ。
僕のやり方は、その人自身が自分の過去時間や心の中に、自分の生活の中で、詩のタネを見つけ育てるやり方。
実力不確かな他者の批評力に頼る、宝くじ式ではありません。
(結果、頭の硬い、前例踏襲の、心地よい褒め言葉を期待しての合評会者は、置いてけぼりになります。)

怒りはエネルギーになり得る。

【意地でも、カルチャーセンターとかで講座を持たないといけない】

今、そう、強く感じています。
詩の新人賞3つに、最終候補にすらならなかった結果だったから、
講座の申請を、この3月は見送り予定でした。

でも、受賞歴poorで、集まらず、ダメ予想でも一度、申請してみようか、と思います。

この怒りは、担当の方へというよりも、不甲斐ない受賞歴しかなく、力無き自分自身への怒りでもあります。

僕は修羅です。
この世は、ある意味、力こそ正義の修羅界だ、と認識しています。

恨むのなら、惨めな己自身の微力を恨め、と心の声がします。

イッツオールライト。
その通りだ。

いいなと思ったら応援しよう!