歌うひとのための「最後の歌(L'ultima canzone)」
曲:F. P. Tosti/詞:F. Cimmino
対訳
M'han detto che domani,
皆が言っていた 明日
Nina, vi fate sposa,
ニーナ、貴女はお嫁に行くんですね
Ed io vi canto ancor la serenata!
でも僕は貴女に またあのセレナータを歌う
Là, nei deserti piani
あの寂れた野で
Là, ne la valle ombrosa,
あの日の当たらぬ谷間で
Oh quante volte a voi l'ho ricantata!
ああ、何度貴女に歌ったことでしょう
“Foglia di rosa
「薔薇の葉よ
O fiore d'amaranto
ああ、雁来紅の花よ
Se ti fai sposa
君がお嫁さんになるなら
Io ti sto sempre accanto.”
僕はいつまでも君の傍に」
Domani avrete intorno
明日、貴女は 周りを
Feste, sorrisi e fiori
お祭騒ぎや、微笑みや、花に囲まれ
Nè penserete ai nostri vecchi amori.
考えないでしょう 僕らの古びた愛のことなんて
Ma sempre notte e giorno
それでも 夜に昼に
Piena di passione
激情に満ちて
Verrà gemendo a voi la mia canzone.
貴女の許へ、呻き届くでしょう 僕の歌が
“Foglia di menta
「薄荷の葉よ
O fiore di granato,
ああ、柘榴の花よ
Nina, rammenta
ニーナ、思い出して
I baci che t'ho dato!”
いくつも君に贈ったキスを!」
歌詞について
よそへ嫁いでゆく、かつての恋人へ宛てたセレナータ(小夜曲、セレナーデ。夜、男性が恋人の窓の下で、恋人を称えて歌う)。
第三連第五行のpassioneは、本来キリストの受難を指す。転じて「苦痛;苦悩」、さらには「(自らを犠牲にするほどの)熱情、情愛」をも指すようになった。
ここでは「苦悩」と「情愛」の双方を含意するだろう。訳語は迷ったが、「激情」とした。
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大きく、「ニーナ」に直接語りかける部分(地の文?)と、歌中歌(?)に分けられる。
音楽も、地の文は短調・歌中歌は長調と、はっきり色合いが変化する。
地の文は「七音詩行、七音詩行、十一音詩行」を二度繰り返し、三行ごとに韻を踏む。
歌中歌は「五音詩行、七音詩行」を二度繰り返し、二行ごとに韻を踏む。地の文よりも音節数が少ない分、より切れ切れに、焦ったように聞こえる。
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地の文と歌中歌とで、二人称の距離感が異なる。
地の文に使われている「voi(貴女、と訳した)」は、慇懃ではないがややよそよそしい呼び方。(なお現在のイタリア語では、一部の地域を除いて廃れている)
歌中歌で使われている「tu(君、と訳した)」は、友人・家族・恋人のような、非常に近い関係の人に対して使われる。
別の男に嫁ぐかつての恋人へ向けて、地の文では突き放すように語りかけているが、歌中歌では恋人だったころのように呼びかけている。
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歌中歌に、植物が4種登場する。
「薔薇la rosa」の花は、愛と美の女神アフロディーテの聖樹とされ、それ自体が愛を象徴する。
「雁来紅l'amaranto」はケイトウの一種で、アマランサスとも呼ばれる。アマランサスという名は伝説の「不凋花(ふちょうか、朽ちない花)」に由来し、不死を象徴する。
すなわち、一つ目の歌中歌に登場するのは、「幸せだった頃に不滅の愛を誓う歌」にふさわしい植物といえる。
「薄荷la menta」の名は、ギリシャ神話の水の精メンテーに由来する。彼女は冥府の王ハーデースに見初められたが、ハデスの妻ペルセポネーの嫉妬を買い、雑草(ミント)に変えられた。葉が強く香るのは、たとえ人々から足蹴にされるような姿と化しても自分を忘れないでいてほしいと香気を振りまいているからだという。
「柘榴il granato」は、ペルセポネーがハーデースと結婚の契約を交わすときに食したとされる果物。
穿った見方かもしれないが、「死神に嫁いだ(=歌い手にとっては死に別れたも同然の)ニーナ」と「雑草のように踏みつけられても、なお歌う僕」という対比の表れとは取れないだろうか。