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要約 Devine, M., 'The Lordship of Richmond in the Later Middle Ages', Liberties and Identities in the Medieval British Isles, ed. M. Prestwich (Woodbridge, 2008), pp. 98-110.

 

イングランド北部の地図
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 20世紀の後半は、中世後期のイングランド研究において、疑似封建制が議論の焦点であった。しかし封建制の連続性はまだ十分に精査されていない。ここでの封建制は、軍事・法・その他の奉仕という枠組みの中で、領主(lord)と土地保有者(tenants)および従臣(retainers)の間に存在する相互的な義務や関係という点から定義される。本論文は、封建制の残余が中世後期にいたるまで多大な影響を維持していたのか、また、リッチモンドシャーにおいて封建的な関係が社会の全階層で機能していたのか、ということを探る。同時代の史料として、1398年編纂のLivre des Domaines des Ducs de Bretagne en Angleterreと15世紀前半に編纂されたと考えられているRegistrum Honoris de Richmondを主に使用する。まずはリッチモンドシャーの歴史を見ていこう。

 リッチモンドシャーは、リッチモンド封邑(the feudal honour of Richmond)の中心に位置する。この土地はもともとサクソン人の太守(earl)であるEdwinによって保有されていたが、1069年のヨーク攻囲戦での奉仕への見返りとして、ウィリアム1世からその親族であるAlain le Rouxに譲与された。リッチモンド城を拠点として、1136年には一つのcomitatusとして認識された。リッチモンドシャーは、封建的特権領(feudal liberty)として北イングランドにおいて決して特有のものであるわけではないが、その領主権(lordship)が俗人によって保有されたことと、不在領主であったブルターニュ公の世襲領土であったことが、領主権保有(tenure of the lordship)を複雑にした。その保有権は主に、ブルターニュ公、王権、その親族の間を行き来した。それらの主張によって、諸権利、諸特権、土地収入が調査され、査定される必要が生まれた。

 リッチモンド伯は、14世紀後半にリッチモンドシャーの90%を支配していたが、再下封(sub-infeudation)によって、直接的に保有している土地は大きく減っていた。リッチモンドシャーには62の騎士采地(knight's fee)があり、これらはもともとリッチモンド城守備隊を務めた騎士たちのためのものであった。1398年には城の守備は、wards and fineと呼ばれる現金支払いに形を変えていた。しかし、上述の両史料に守備隊の詳細なリストがなお含まれていたことは、15世紀リッチモンドシャーにおいて、歴史的な封建的義務構造が理解され受け入れられていたことを、そして、領主権の保有者とその土地保有者にとっての理解と受容の持続的重要性を示している。Registrumによれば、1398年までに、62あった騎士采地は、結婚や交換や再下封によって、3つの主要な封土(封のブロックってこと?)になっていた。スクロープ家のConstable's fee、ネヴィル家のMiddleham fee、フィッツヒュー家(FitzHugh)のMarmion feeである。これら3つの封土の保有者は自身の権利によって領主であり、その土地保有者らと直接にかかわる地域の貴顕であった。地代は、現金または現金ではない形での地代(kind)、または軍事・宮廷奉仕の形で徴収された。それに加え、リッチモンド領主(lord of Richmond)は、3つの主要な封土保有者から、軍役代納金(scutage)、相続上納金(relief)、後見権(wardship)、婚姻権(marriage)の代わりの支払いを期待できた。また封土保有者は、それぞれの主城(caput)を拡張することで、自身の富、権力、支配を誇示した。リッチモンド領主の行政は、リッチモンド城に拠点を置く役人集団によって行われた。主要な土地保有者は軍事奉仕も求められた。Livre des DomainesとRegistrumからは、1370年から1425年にかけて、リッチモンドの領土(lordship of Richmond)が、封建的特権領の歴史的な伝統の多くを維持していたことが分かる。

 Registrumの編纂者は、リッチモンドの領土が、ただの所領(landed estate)というよりも特権領(liberty)であるという確かな考えをもっていたため、その封建的起源と持続的な封建的要素を強調した。そのため、Registrumにおいて、封建的歴史と当時の封建的現実両方が強調され、それはまさに、編纂者がどのように領主権を見て、編纂物がどのように読まれたいのかという宣言であった。所領の連続性、古さ、家系はその保有者にとって重要であった。さらに諸儀式は、社会的関係において本質的に重要なものであると認識されていた。リッチモンドシャーは、イングランド全体の典型例でも、北部の特権領の典型例でもない。しかし、リッチモンド特権領は、ヨークシャー北西だけでなく、イングランド全体にとっても、それが名誉、富、権力の源泉であったという点で重要である。

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