Gifts from Rwanda
みんなは、初めて行く海外の国はどこなのだろうか?
僕は、初めて行く海外の国にアフリカ・ルワンダを選んだ。
スタディーツアーSTARTという、青年海外協力隊でルワンダにきた後、現地で日本の学生や社会人向けにルワンダツアーをやっている竹田憲弘さんという方が主催するツアーに参加した。(スタディーツアーSTART リンク:https://rwandanote.com/2018/10/10/start-plan-list/)
今回はそのルワンダのお土産話を記そうと思う。
民俗学者の柳田國男は明治と大正の世相を書いた『明治大正史世相篇』を執筆した苦労を次のように記している。
今自分が生きる社会の特徴を、その社会で生活しながらに感じ、記述することは難しい。
今回、私は初めて日本を出て、ルワンダに足を運んだ。そこで、見たものは何もが新鮮で、面白味があるものだった。ルワンダの人にとってそれは当たり前であろうが、日本人にとっては、面白く、新鮮であるものが、そこにはあったのである。
本投稿では、19年生きた日本を飛び出し、ルワンダで起きた、エピソード、ネタになりそうな出来事、ルワンダの世相をできるかぎり記す。
移動〜1日目
ルワンダには何種類か行き方があるが、最もオーソドックスなのが、カタール航空を利用して、カタール・ドーハを経由して、ルワンダ・キガリ空港へ行くものである。今回はこれを利用した。
成田からドーハは約12時間、ドーハからキガリまで約6時間だった。間のトランジットの時間を入れると丸一日かかるのにも関わらず、「飛行機に初めて乗るわ」とかいうぶっ飛んだ同行者もいた。
時間潰しのために家で印刷してきた、2020年度のセンター試験の問題を、預けたバックパックに忘れ、液体物の持ち込みが禁止と知らずにシーブリーズを全部捨てられるなど、色々萎えたが無事に搭乗手続きを済ませた。12時間のフライトは初めての長さだったが、うち8時間は寝ていたので、ドーハまではあっという間だった。
ドーハのハマド空港は非常に近代的だった。(写真1:ハマド空港)
乗り継ぎも無事できたが、中国国籍の方はコロナの検査が行われるようだった。
ルワンダの前に、ウガンダで一回着陸し、そこで人の乗り降りが行われるため、ルワンダにいく人はしばらく待機させられた。
ウガンダの空港での待機中に突然、女性CAの方がシューーーーーーとか言いながら白い煙を吐く箱を両手に持ちながら、聖火ランナーのように通路を往復し出した。あれは何の煙なんだ?
説明もなしに突然行われたショーに、これからルワンダでどんなことが起こるんだと、ワクワクした。
空から見たアフリカは綺麗だった。(写真2:飛行機から見下ろすアフリカ大陸)霞ヶ浦の広さを誇りに思いながら育った茨城県出身の僕だったが、ビクトリア湖は海のようにデカくて感動した。初めてアフリカの大地を実際に見て、ニヤニヤしていたが、「こいつら何を見て、ニヤニヤしているんだ」と言うようにアフリカ人の方には睨まれてしまった。
ルワンダに着いた。
日があたると暑いが、日陰は風がふくと涼しい。カラッとしているので、日本の夏よりはかなり過ごしやすい。赤道直下の南緯1度付近に、ルワンダは位置するが、どこも標高が1500M〜2000Mあるため、一日の気温は15〜25度で安定している。丘の上には、赤茶色の屋根のいかにもアフリカらしい家が並んでいた。(写真3:ルワンダ・首都キガリの街の風景)
ルワンダでの時間の流れは非常にゆったりしている。
両替は両替機を通してお金を数え、自動で計算された分のルワンダフランを出すだけだが、1人5分~15分もかかる。料理もファストフード店に行っても、ご飯が出るのに1時間以上かかる。このスピードは、ルワンダに何年も済むツアー主催者竹田さんによると、どこのルワンダのレストランに行っても同じだという。マク◯ナルドや牛丼チェーン店の吉◯家・す◯家とは違い、「飯が出るまで、ツイッターのTL追うか〜」とかやる時間すら許さないくらい、効率が求められている日本のレストランとは対照的である。
しかし、そんなルワンダは、すべての時間の流れがのんびりしているわけではない。
なぜか、車は信じられないくらい飛ばす。
公道で100kmくらい飛ばす。
バイクがたくさん走っているのだが、そいつらを吹き飛ばしかねないくらい、早いスピードで追い抜かす。
料理を出すのは非常にのんびりしているのに、何がこんなにルワンダのドライバーを駆り立てるのだろうか。
ただ、レストランでは、一緒にツアーに参加した人たちと、のんびり話す時間も確保できたので、時間の使い方次第だと感じた。
ルワンダの道は、都市部はよく舗装されている。信号は赤と緑だけ。そして赤の時は、後何秒で青になるか、下に秒数がカウントされている。人々も信号はきちんと守っている。ただ、とにかく自動車を飛ばしているのが、ひたすら怖かった。所々に中国語の看板が見え、中国のアフリカ進出の面影が見えた。ケンタッキーやISUZUなど馴染みのある看板も多かった。車はほとんどが日本製で、トヨタが多かったが、左ハンドルに改造されていた。
泊まったMijo Hostelというホテルは外観がとても綺麗でオシャレである。問題があるとすれば、トイレとシャワー。ユニットシャワーなのだが、仕切りがないところが僕の済む弊大学の寮と一緒。ただ、僕の住む弊大学寮の2倍以上の広さがあり、手を伸ばせるスペースがあったので、日本(代表:弊大学寮)より快適であった。
と思っていたが、残念ながらお湯が出ない。一応、給湯器は付いているのだが、機能が弱いのか、一瞬、40℃近くのお湯がでたかと思うと、生ぬるく、冷たく感じた。
ただ、「日本男児はこんなところでは負けない!日本には『寒風摩擦』がある!!!!」と思い、必死にゴシゴシやって乗り越えた。
シャワーから出ると、小学校でプールから出てきた後のような、体がポカポカした感じになった。
ベッドには蚊帳がついていた。ルワンダは渡航するのに注射をする必要はないが、特別に注意する必要がある病気は、マラリアである。マラリアは蚊に刺されなければいいし、マラリアを媒介する蚊も活動するのは夕方〜夜明けだけ。
そのため、蚊帳をして寝れば大丈夫。と思っていたが、蚊帳はなぜか穴だらけであるのだ。虫除けスプレーを塗り忘れて寝た時があったが、夜中に「ブーン」と跡が聞こえ、布団に潜ったが耳が出ていたらしく、次の日に耳が腫れた。
また、丸二日、成田からルワンダまでシャワーに入れなかったため、汚れた服を早く洗いたかった。事前に宿の人から、洗濯はできると聞いていたので、洗濯を頼むと、
「ん?タライが欲しいの?」
「いえいえ、洗濯をして欲しいのですが、ランドリーはありますか?
「え?ランドリーはないよ」
「…」
旅の疲れがあったので、この日は速攻寝た。
2日目
鳥のさえずり、というか、そんな可愛く、落ち着いたものではなく、宴や祭りと形容された方がふさわしい、鳥たちの鳴き声で起こされた。まだ午前4時だった。2時間だけさらに寝たが、6時にはみんな起きていた。
(写真4:朝ごはん)
Mijo Hostelでは、上の朝ごはんが毎日でた。パイナップルとかが特に美味しかったが、手前にある宇宙人の卵見たいな奴が何か分からなかった。カエルの受精卵みたいなのが中に入っている。食べてみると酸味が効いていて美味しい。後で、スーパーにあったジュースのパッケージに描いてあって知ったが、パッションフルーツのようだ。
朝食後はツアー主催者の竹田さんがルワンダ講座を開いてくれた。ルワンダの電化率は約60%であること、日本の武道が人気(ただし、空手、合気道、テコンドーなどがごちゃごちゃになっていて区別がついてないよう)、ゴリラ園の入場料は外国人が約15万円かかるなど、色々なことを学んだ。
その後、ルワンダの虐殺記念館に足を運んだ。(写真5:ルワンダ虐殺記念館)
僕もそうだったが、ルワンダといえば虐殺で聞いたことが、日本人には多いのかもしれない。その虐殺について、学べる場所である。
ルワンダ虐殺では多数派のフツが少数派のツチを虐殺、人口の約1割である100万人が殺されたとされている。上の文章だけでは単なる民族対立による虐殺であると誤解されるだろうが、そんなに単純な話ではない。
そもそも、フツ・ツチという民族自体、元々存在しなかった。ベルギーがルワンダを植民地としたときに、作り出した概念である。
なぜそんなことをしたのかというと少数派のツチを優遇することで、多数派のフツとの間に民族対立を作り出し、支配への抵抗の矛先をベルギーではなく、ツチに向けさせるため(ベルギーは間接統治の形をとって、ツチに政治を行わせていた)である。帝国主義時代によく取られていた民族や宗教対立を助長して、不満の矛先を宗主国側へ向けさせず、統治を円滑に行う手法である。
これによって、独立後に政権を握ったフツは、それまで優遇されていたツチへの反感をあわらにしていく。これにルワンダ政権内の権力抗争やフランスが国際社会の中で力を保つためにフツを支援したりなど、様々な要因が重なって、虐殺は起きた。
一口に、歴史的な民族対立によって起きた虐殺、と片付けることはできない。
虐殺記念館ではそのような歴史だけでなく、虐殺によって殺された人々の写真や、どうやって亡くなったかが分かるような、穴が開いた頭蓋骨や服が展示されていた。
一番衝撃的だったのは子供のコーナー。子供の写真とともに、その子供の死因が描いてあった。「生後15ヶ月。母の腕の中でナタで切られて死亡」「2歳。壁に頭を押し潰されて死亡」
虐殺の原因が、政治的な要因によっても起こったことを考えると、なにも罪のない子供が無残に殺されてしまった事実を知って、心が痛んだ。
虐殺記念館の後は、ランチを食べながら、WHOで働く日本人の野間口さんにお話を伺った。
そして、併設されるスーパーへ行った。
まず、スーパーに入るとでかいカバンとリュックは預けられた。万引き防止のためであろうが、徹底しているなあと感じた。食品は非常に安い。アボカドが一個20円ほどで買える。
ちなみに、ルワンダ土産の定番は紅茶とコーヒー。ブランドにもなっていて、200円〜300円くらいで買える。
自分はmentosと書かれていたのを手にとり、日本では売られていないタイプのだったのと、日本のメントスと違うのかなーと思い、購入した。(写真6:メントス)
これがある意味当たりだった。
噛むとメントスならではの感触がする。味も何味かよくわからないが、美味しい。
しかし、なぜだ?噛んでも噛んでも、メントスが消えない。
チューイングガムの一種とは思えないくらい、口の中に残る。
ルワンダのメントスはガムのようである。
食べ終わった後は、紙に包んでゴミ箱に捨てましょうと書くべきである。
ちなみに、こういう容器に入っている日本のガムとは違い、このプラスチックの中に、小さな紙は入っていない。
買った品物はプラスチックの袋ではなく、紙袋に入れられた。また、ルワンダは環境のため、プラスチックの持ち込みが禁止されている。ちなみに、カフェで出てくる飲み物のストローも紙ストローであるところがあった。環境に対する配慮は当時の日本よりも進んでいる一面が見えた。
夜ご飯は高級ルワンダ料理店へ行った。ルワンダのレストランは300円(=約3000ルワンダフラン)くらいからお腹いっぱい食べられるところもあるが、そこは2000円(=約20000ルワンダフラン)した。なんて名前なのか分からないし、どんな調味料で味付けしているのか分からないが、美味しかった。
(写真7:高級ルワンダ料理。肉料理、芋、豆、バナナ、謎の草、インディカ米etc)
3日目
この日も鳥の(騒ぎ)声で起きた。茨城にも朝に鳥は鳴いているが、ルワンダの鳥の数と声量は比べ物にならなかった。
朝食までに時間があったので、ツアー仲間と散歩に行った。
ちょうど小学生がprimary schoolへ通う時間と重なった。ルワンダの子供はとてもフレンドリーなので、向こうから挨拶をしてきてくれて、ハイタッチまで求めてくる子もたくさんいる。
子供が話すのは、ルワンダの公用語の一つケニア=ルワンダ語である。こちらも、挨拶は事前に覚えてきたので、Amakuru?(アマクル)(=How are you?)と聞かれると、Nimeza!(二メーザ)(=I'm fine.)と返していく。
よし、こちらからも、日本人だがケニア=ルワンダ語で挨拶できるんだぞと、示すために、Amakuru?と聞いた。
返ってきた返事は何と、
Yes!
お前がNimeza!と返すんじゃないんかい!
と思いながらも、楽しく散歩を終えた。
朝食後はKisekiという日本人の方が開く宿泊施設兼レストランで、現地のシングルマザーに雇用を提供している場所でもあるところに行った。そこで働くシングルマザー住む村に、我々は連れて行ってもらうことになった。
首都キガリは道も整備され、家も綺麗であまり途上国らしい様子を見せていなかった。しかし、その村はキガリの中ではいわば「スラム街」と呼ばれる場所だった。(写真8:ルワンダのとある村)
家の中は暗く、電気は一応通っているが、夜しか使わないらしい。土だらけの服を着て、持ってないのかそういう趣味なのか知らないが、中には靴を履いていない子供もいる。大人は携帯電話を持っているらしいが、カメラは珍しいようで、カメラを見せると「撮ってくれ」とお願いしてくる。
そこで、サーターアンダギーみたいなドーナツをご馳走してくれるらしいので、それができるまで子供と遊ぶことにした。
幼稚園から小学校低学年くらいの子供たちは、最初はこちらを怪しそうに見ていて心を開いてくれなかったが、Oxford大学志望を名乗る少年がフランス語を話せると言って、フラ語履修者の僕に"Do you know 'dog' in French?"とクイズを出してきた。クイズをしているうちに、別の男の子が僕の手を引っ張って、ビー玉をくれた。それを何十回も坂から転がしては拾って遊んだ。不規則に転がるビー玉が面白いのか、ニコニコ楽しそうにしていた
僕も紙とペンを子供に渡してあげた。子供たちは何か文字のようなものを書いたり、絵を書いたりしてくれた。(写真9:子供がかいたもの)
絵を描くのに飽きると、「もっとカバンの中を見せてくれ」とカバンを漁られた。お目当てはスマホのようである。どこで学んだのか、カメラの撮り方はよくわかっている。中には友人のスマホを取り出し、パズドラを始める子(パズドラのやり方は知らなかったがとにかくゲームがしたいらしかった)がいたが、病的な学歴厨の同行者のYoutubeを開いて、おすすめに出ていたwakatte.TVを見始めたときは、日本の学歴社会の負の側面を彼らに信じ込ますまいと思い流石にやめさせた。
もちろん、子供はルワンダ語しか話せなかったが、ジェスチャーや表情でコミュニケーションをとるのは楽しかった。
ドーナツを食べた後(ドーナツは味はほとんどサーターアンダギーと一緒だった)、その村の子供が通う幼稚園へ行った。校庭に遊具があり、教室に机と椅子があって勉強も教えるようだった。壁にはなぜか日本語で1日のスケジュールが書いてあった。「7:00登校」と書かれた時点で日本の大学生は絶起して来れないなと思った。また、「8:00~8:50円になって環境について学ぶ」と書かれており、これには感心した。
午後からは、ムシャセクターという、都市部のキガリから車で1時間ほど走らせると行ける農村部に行き、農村ホームステイを行った。
道中は、家々が立ち並ぶ都市部の丘とは違い、豊かな緑が広がる。バナナの木が一番多くなっていた。(写真10:農村の家の様子)
家の中は電気は通っており、テレビもついていて、世界でコロナウイルス拡大の事実と感染防止のため、手洗いうがいを呼びかけていた。
そのような呼びかけはあったが、水道は家に整備されておらず、手洗いうがいはできない状態だった。水は近くにある公共水道で水をポリタンクに入れて使ったり、雨水を貯めたりして使うようだった。
家の外についていたトイレは汲み取り式で、前方後円墳のような形の穴が開いていた。電気はないので夜は真っ暗。トイレットペーパーもついていなかった。
外にタライが置いてあり、洗濯はそこでするようだった。
村に着くと、道端であった少年に、突然「どこにいくんですか?」と日本語で声をかけられた。何で日本語が話せるのかよくわからなかったが、こういう日本語を話せる、すごい子もいるんだなあと思った。
僕が泊まった家は62歳のお母さんとその4人の子供のうち、末っ子のファブリスという21歳の青年と、彼の兄弟の子供3人で住んでいた。
1泊2日のホームステイだったが、ファブリスとずっと話をしていた。日本のことをいろいろ聞かれ、たまに、こちらからもいろいろ質問をした。
ルワンダでは何歳で結婚するんだと聞いたら、ルワンダでは21歳にならないと結婚できないと言われた。日本の方が早いんだと驚いた。
また、いつも何時に寝るんだと聞いたら、20時〜21時と言われたので、早く寝て早く起きるんだなあと思ったら、起きるのは8時と言われ、日本の大学生と睡眠時間は変わらないんだなと知った。
一番印象的だったのは、日本に来たら何をやりたいかと聞いたときである。
観光したいとか日本食が食べたいとか言うんだろうなと待ち構えていたら、
「良い仕事につきたい」
と言った。ルワンダでは、仕事がない大人もいるらしい。サービス業や教師でも月給はせいぜい50万ルワンダフラン、日本円で5万円ほどの給料である。食べていくには十分だが、大学に通ったり、レジャーに出かけるには全然足りないお金らしい。観光とか外国の料理を食べに行けるというのは生活に余裕があるから言えることなのであって、途上国の農村にいる人々はそのような余裕がないんだなあと思った。今回ルワンダに行き、ツアーの参加料や必需品(パスポート代やビザ代など)を揃えると約30万円ほどかかり、自分もかなり苦労した。それでも、やはり日本に住むというのは、とても恵まれていることなんだなあと痛感した。
彼のお母さんが得意料理を振る舞ってくれた。
農村のルワンダ料理はこんな感じである。(写真11:ルワンダの農村での食事)もちろん、外国からの来客がきたので、いつもより豪華なものを用意してくれたのかもしれないが。(ルワンダは資源が少ないので、観光業が重要であり、ルワンダに足を運んでお金を落としてくれる外国人を敬う国民性があるらしい)
日本に似た米に、豆、牛肉、謎の草。
一番驚いたのは、甘くないバナナ、グリーンバナナだった。見た目はそのままのバナナだが、食べてみると、まさしく日本のイモ。味がイモだし、食べた後のほんのりと感じるあの土っぽい風味までイモなのである。これには大変衝撃を受けた(おいしかった!)
夜空を見にいった。街灯がいくつかついていたが、きれいに星が見えた。ルワンダの農村部でも街灯はついているので、そこまで綺麗な夜空が見えるわけではない。ただ、南半球にいるため、オリオン座が逆に見え、サザンクロスも見えたので、いつもと違う星空に満足だった。
夜はゲストルームを用意してくれていたので、ぐっすり眠った。
写真12:泊まった部屋。蚊帳がきちんとついていた。服は家の人のもの。こういう服をいつも着ているんだなあ
4日目
起床した。リビングに行くとお母さんが突然、Je suis malade(フランス語で「私は病気だ」)と言ってきたが、Quel dommage... (それは残念)としか言えなかった。どうすればよかったんだ…そんなにフランス語できないし、病気も直せないよ…
朝ごはんはパン一つと、名産の紅茶だった。ルワンダ人は甘党なのか、紅茶に大さじ一杯の砂糖を2〜3杯もいれる。スプーンにちょびっとだけ砂糖を盛って、紅茶にいれると「少なすぎる」と言われた。
朝食後は散歩に連れて行ってくれた。(写真13:ルワンダの農村の風景)
舗装されていない道路が広がり、道端には、バナナ、キャッサバ、じゃがいもが植えられており、普通にアボカドがなっている木もあった。牛やヤギも家畜として飼われていた。教会もあったり、日本のJICAの施設もあった。
少し脱線するが、首都キガリには大使館や大統領が住む家などが建つ地区がある。そこでは銃を持った兵が護衛しており、写真をとることどころか、それらが建ち並ぶ側の道路は歩くことすら許されておらず、そちら側だけ歩道が存在しなかった。大変厳重な警備である。アメリカや中国の大使館は大きかったが、日本の大使館はビルの5〜6階に位置するだけだった。どれだけその国がルワンダを重視しているかが分かるらしい。
散歩の後はホームステイをした農村にある学校をまずは見学し、我々はその内、六年生に当たるクラスで授業を行った。
ルワンダの学校では、持ち前のフレンドリーさで我々を歓迎してくれた。まだ31歳だという校長先生が案内してくれて入った授業はコンピューターの授業である。
(写真14:ルワンダの学校のコンピューターの授業)
ルワンダはIT立国を目指しており、一人一台Laptpoを支給する取り組むを行なっており、そのため、500ルワンダフランには、Laptopを操作する子供が刻まれているほどである。この教室では二人で一台使っていた。授業では、"DIANA"と大文字でタイプしようということをやっていたが、隣にいた同行者の学歴厨が「"What say DIANA"の"What say DI"の部分が「ワセダ」に聞こえてきた」とか言っていた。
その後、フレンドリーな子供たちに熱烈に歓迎されながら、教室を回った。
壁に昆虫の体の作りが書いてあるポスターなどが貼ってあった。
そのうちの一つに子宮の構造が書いてあるポスターがあった。日本じゃまずこんな堂々と貼らないだろうなと思いつつ、性に関する概念もここだと違うのかなと感じた。
授業では、少量の水を入れたペットボトルと線香の煙を使って、圧力を変化させ、雲を作る実験をやった。実験はルワンダの学校ではほとんどやらないらしい。雲の出来方は授業でやっていたようで、実際に作って子供たちは大喜びだった。先生も我々から実験道具をもらって、大喜びしていた。
その後、校長先生の話を聞いた。ルワンダでは多くの親が教育を受けていないため、子供が教育を受ける重要性をわかっていないなど、ルワンダの教育の問題を教えてくれた。給料は少ないが、教師としてのやりがいは、教育を受けた子供が大きくなって偉くなったり、活躍してくれることであり、成長する子供達が実りであり、我々にとっての収穫である、と力説してくれた。
昼食を取りに、ホームステイ先の家に戻るとまだ学校がある時間だが、子供たちが家にいた。primary schoolをブッチしたらしい。
午後には、キガリのホテルに帰った。そこで、あべまさきさんというベナンに一年留学をした後、リバ邸という日本でアフリカを体験できるシェアハウスを管理している方の話を聞いた。
聞いた話で二つ面白い話があった。
一つ目はベナンの夫婦制の話である。
ベナンは一夫多妻制が許されているが、妻の関係はとても良いらしい。というのも、まず二人以上の奥さんを持つには第一婦人の許可が必要らしい。そこで夫人は「夫が幸せになれるか」を基準にして許可を出す。そのため、別に夫人間でのゴダゴダはないし、「どの妻が一番好き何ですか?」と言って旦那さんが「この人」とか言うと、「あなたも好きね〜」とか夫人間でゲラゲラ笑ったりするらしい。
二つ目はベナン人は自国愛がなぜないのか、という話。
この茨城生まれ茨城育ちの日本人の僕は、茨城の7年連続都道府県魅力度ランキング最下位ネタはよく使うが、ベナン人は自分の国に対しても自虐を好むらしい。
その理由はどこにあるのかというと、教会にあるらしい。
教会に行くとこう説教されるそうだ。
「あなたたち、ベナン人は、前世に悪い罪を犯した。そのために、ここベナンに生まれてきたのだ」
そんなこと言うか?!教会だぞここは!と思ってしまうが、このような思想を植え付けられているから、自国愛が低いらしい。
夕飯はヤギの肉の料理を食べた。また、ルワンダでしか飲めないファンタ・シトロンを飲むことができて嬉しかった。ルワンダに来たときは、そこでしか飲めないファンタシトロンをぜひ。僕はまたシトロンを飲みに、ルワンダに行きたくなってきた。
5日目
この日はアカゲラ国立公園という、ルワンダにあるサファリパークに行く予定であった。
そのサファリパークはルワンダとタンザニアとの国境付近にある。ルワンダは四国の1.5倍程度の国土なので、首都キガリから、ルワンダ国内なら4時間ほどあればどこでも行くことができる。アカゲラ国立公園へは車で3.5〜4時間程度で行ける。動物たちは大学生とは違い、朝のほうが動きが活発らしいので、朝6時に出発することになっていた。時間通りに運転手の兄ちゃんが迎えに来てくれた。朝ごはんはホテルの方が弁当を用意してくれるとのことだったが、案の定、ホテルの方は絶起していて、朝食は用意されていなかった。
朝食は公園の近く(と言っても公園までは1時間くらい更にかかるが)にあるパン屋に寄った。大人の手のひらよりでかいシナモンパンが五十円くらいで売られいて、安かった。
公園はいかにもアフリカのサバンナといった場所だった。入園ゲートを潜る前から既に猿がお出迎えをしてくれた。公園の名物はBIG5と言われる野生動物である。ライオン、ゾウ、サイ、ヒョウ、バッファローの五種類。(うち、サイとライオンは南アフリカからの輸入らしいが、黙って目を瞑っておこう)
インパラやらシマウマやらはそこら中にいるので、最初は見つけると、はしゃいで写真を撮ったがそのうち「あ〜インパラか。もう見飽きたわ」とか贅沢なことを言ってスルーしてしまうほどになった。(写真15:シマウマとインパラ)
キリンやサル、イノシシもそれなりに見かけたが、やはりBIG5は結構運がよくないと見れないらしい。昼にはHippo beach というカバがたくさんいるビーチ(といっても沼)に寄って休憩をとった。(写真16:ブクブクやってるカバ)
カバは6分間水中にいられるらしく、呼吸をするとすぐに潜ってしまう。
運転手さんはカバは見飽きているのか、興味はないようで、休憩所にいた女性とイチャイチャしていた。
(写真17:キリンです。)
道はガッタガタなので、とても揺れる。ディ◯ニーとかのアトラクションよりよっぽどスリルがある(酔いやすい人は酔い止めを)。震度6強くらい揺れるのに、なぜかツアー中に周りの3人が寝ていたので、何が眠気を誘うんだと不思議に思った。
休憩所以外にトイレはない。そのため、水平線まで広がる大地に向かって排尿をする。何百万年も前に誕生した人類もこの地、アフリカでこんなことをしていたのかと思うと、グッとくるものを感じた(別に下ネタではないです)。
動物は近寄っても結構ビビらないので、かなり接近できる。ただし、写真を撮るには望遠レンズがあったほうがいいだろう。
(写真18:ゾウさん)
ゾウはアグレッシブらしいので、近づいてはいけないらしい。道に現れた時も、シマウマとかだったら構わず突っ込んで逃げさせていたが、ゾウの場合、向こうから離れるまで待機を予期なくされた。
今回はBIG5のうち、ゾウ、バッファロー、ヒョウに出会えた(ヒョウは一瞬で逃げたので写真は撮れず)。これでも結構見れた方と案内のドライバーのお兄さんが教えてくれた。
しかし、一番印象に残っていたもの、それは、ドライバーさんのゆるゆるで、東アフリカを縦に走る大地溝帯である、グレートリフトバレーのような割れ目が見えるくらいまで、ズボンが下がったことによって現れた、運転手の兄ちゃんの真っ赤な赤のパンツだった。チップとしてベルトでもあげたいお気持ちになった。
帰りは相変わらず沿道にいるフレンドリーな子供に手を振られたり、追いかけられたりしたので、天皇陛下のように、こちらからもおしとやかに手を振り返した。道中、トラックの荷台にしがみついている人(飛び乗ったのか、運転手との間で合意があるのか定かではない)や民間の軽トラの荷台に乗って移動する警察官、脇に鶏をくくりつけながら移動するバイク、なぜかほぼみんな同じ色の抹茶色のヘルメットを被っている不思議なバイク運転手達など、見慣れない光景を楽しんで、眠ることができなかった。
また、我々一行は帰り道に、一度銃を持った警察に捕まった。どうやらスピード違反らしい。まあ、ちょっとでも遅い車が前にあると、一車線の道路でも前方車両を抜かしにかかる、マリオカートみたいなことをしてたら、捕まるよなあと思いつつ、ドライバーが金を渡すとすぐに開放してくれた。
帰りはホテルの近くにある「ロレックス」という料理のお店に行った。(写真19:ロレックス(写真左下にある足跡みたいなやつは無視しておこう))
ロレックスというと高級時計メーカーだが、このロレックスは、ローリングエッグスの略のこと。タピオカの原料であるキャッサバと卵焼きの二重構造の生地で、肉やイモ、豆、トマトを巻いたものである。ボリュームがあってとても美味しかった。ウガンダ料理らしいが、ルワンダに来ても食べる価値がある。
6日目
朝のフリータイムはイネマアートセンターという、アフリカの芸術家の作品が置いてある美術館のようなところに行った。(写真20:イネマアートセンター。中は撮影禁止だが、エントランスはめちゃくちゃインスタ映えしそうな落書きがたくさんあった)
気に入った作品は買って帰れるそうで、絵の横には値段が書いてある。というか、ここじゃなくても、ルワンダはどこに行っても絵は買わせる気満々である。高級ルワンダホテルに行った時も、エントランスや廊下に貼ってあった絵の横に、値段が書いてあった。日本じゃ普通、値段は書いていないだろう。
近現代画がメインなのか、抽象絵画がほとんどだった。もっと前衛的なものはないのかなと思いながら、お土産屋があるようだったので、そこへ入った。
するとお土産屋の奥には、それは、とてもとても、前衛的な像が、そこにあった。
一緒に来ていた男子たちの間に衝撃が入った。
こんな前衛的な作品がここに置いてあってもいいのか。
これはいくらするんだ。値段がどこにも書いていない。売られていないのか…
その「像」はただの像ではなかった。
高さ80cmはあるであろう、木彫りの、男性なら誰しもが持つ「ゾウ」が、そこにはそそり立っていたのであった。
我々はアートセンターを後にした。(写真21:下品なお土産コーナーを浄化させる、きれいなイネマアートセンターの裏庭)
昼食はキガリの中心街にある中華料理屋に行った。ルワンダの食事は基本的にハズレがなく、どれもとても美味しい。しかし、やはり日本の食べ物は無性に食べたくなるもので、どうしても豚骨醤油ラーメンが食べたかった。だが、そこにラーメンはなかった。
昼食を食べながら、牧野広太さんという、大学卒業後に新卒でルワンダにやってきて、安全なトウモロコシの粉をコンゴに届けている企業の社長さんにお話を伺った。アフリカ人のパートナーが初日から来ないなど、アフリカでの、日本では考えられない苦労話が多かったが、アフリカでの起業というものに、とてもワクワクする面白さを感じた。
昼食後はBelgian Peacekeepers Memorialという、ルワンダの虐殺の際に、首相を護衛して亡くなったベルギー兵士を祀った施設に寄った。(写真22:Belgian Peacekeepers Memorial)
その時のマシンガンの跡が今も残されていた。その正面にはなくなった人数分の慰霊碑が建てられ、なくなった時の年齢の分だけそれぞれの石碑に線が入っていた。
その後、コメラクリエイティブというお土産屋さんに行った。
そこに勤めている女性の方はルワンダの虐殺で、夫や兄弟を殺されながらも生き抜いた女性だった。
その生々しい虐殺の時の経験談は、我々の心に刺さった。虐殺の後、同じく家族を失った人々と協力して、アフリカ布を使ったお土産を作っているそうだ。(写真23:アフリカ布のLaptopと定期入れ)
ここのお土産はとにかく安い。先ほど紹介したアートセンターでLaptopケースは30,000ルワンダフラン(日本円で約3,000円)したが、ここでは10,000ルワンダフラン(日本円で約1,000円)だった。
お土産を爆買いして、ルワンダ経済を回す歯車の一つとなった一行は、映画『ホテル・ルワンダ』のモデルになったホテル・ミルコリンズで振り返りミーテイングを行った(撮影自体は南アフリカで行ったので、映画に出てくるものは見れない)。
その後、ルワンダでの最後のディナーは、ルワンダに何年も住むツアー主催者竹田さんが、ルワンダで一番綺麗な景色が見れるという、ウブムウェ・グランドホテルに連れて行ってくれた。
ルワンダは都市の割と大きな施設に行くと、空港なんかでやられる手荷物検査を通らなくてはならない。例によって、このホテルでもやるのだが、ゲートを潜った瞬間ブレイカーが落ちたのか、停電になってしまった。しかし、アフリカで最も安全な国と言われるルワンダの治安を維持するために、面倒だが、この検査は活躍している。
写真24:ルワンダ・10億ルワンダフラン(=100万ドル)の夜景
夕食と夜景を楽しんだ後、「バナナビール」という踏んだバナナを発酵させた、(ゲテモノがほとんどないルワンダで唯一と言ってもいい)珍ビールを飲んだ。おいしいか、おいしくないかは明言しない。ぜひ試して欲しいからだ。ただし、味の感想は、仲間曰く、ゴマドレッシングらしい。
7日目〜日本帰国
最終日。最終日だったが、お土産も買ったし、行きたい観光地は大体網羅できていたので、午前中はホテルでダラダラと過ごしていた。
ランチはKISEKIという日本人が経営するレストランで、久々の日本食を食べた。(写真25:ルワンダの日本食)
昼食後すぐに、チェックアウトし空港に向かった。
すると、目の前に高速の料金所みたいなでかいゲートが現れ、我々は荷物だけ車の中に残して車から下ろされた。どうやらこの巨大なゲートを使って、車ごと荷物検査を行うらしい。豪快だなあと思いながらも、すぐに荷物検査は終わった。
アフリカで過ごした1週間という時間はあまりにもあっという間であった。26日の深夜に刑務所と呼ばれる弊大学の学生寮に戻ってきた時、旅の疲れもあってか、何か自分は幻想のようなものを見ていたに過ぎないのではないかと感じた。
しかし、肩から下がった一眼レフには、アフリカの赤土が残されていた。(かっこつけたこと書いて終わりますが、この後、僕は昼夜逆転に苦しめられます)
おまけ
ルワンダに行くには、ビザを取る必要がある。ビザを取る方法にはアライバル・ビザというキガリの空港でビザを取るか、日本の世田谷区にあるルワンダ大使館でビザを取る方法がある。どちらも50USDかかる。
物好きな僕は、どうせ同じ50USD払うなら、ルワンダ大使館に行ったら面白いんじゃないかと思い、わざわざルワンダ大使館に行くことにした。
大使館に行く前に、書類をプリントアウトしておく必要があるようだが、なぜか書類をダウンロードできるサイトのリンクが切れている。大使館HPなのにガバガバだなあと思いつつ、大使館に直接行って書類をもらうことにした。
ルワンダ大使館は自由が丘駅から徒歩15分の場所にある。パスポートの受領のため、新宿に用事があったので、その後に大使館で寄ることにした。そういえば、大江戸線で都庁前から自由が丘駅に行けるじゃんと思っていたので、よく調べもせず、大江戸線を下った。
駅には一緒にルワンダに行く、物好きの友達が待っている。下車すると、友達は正面口で待っているという。
正面口?A1~A5という入り口しかないぞ?どれが正面口に当たるんだ?と思いながら、地上に上がり、全ての出口にでたが友達の姿がない。
あ〜れれ〜?お〜かしい〜ぞ?
とか思っていると、友達からラインが届いた。
「それ、ほんとに自由が丘駅か?」
僕はよく調べもせず、ただなんとなく、大江戸線の終点に◯◯ヶ丘という駅があったことだけを頼りに、この駅で降りたことに、どきりとした。
駅名の看板に目をやるとそこには…
_人人人人人人人_
> 光が丘駅 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
(写真26:僕を待つ、君がいるのは、自由が丘。
僕が行き、君を待つのは、光が丘。)
友達に謝罪のメールを送った。優しい彼は、谷川俊太郎の詩集を読んで時間を潰し、僕を待ってくれるという。
僕は大江戸線から丸の内線を経由し、新宿へ戻ってそこで、副都心線から東横線への直通の電車に乗って、50分と電車賃600円弱を無駄に費やして自由が丘へ降りたった。
優しい友人(ちなみにルワンダに行こうというのも彼から誘われたものだった)と歩くこと15分。ルワンダ大使館へ着いた。(写真27:ルワンダ大使館)
ルワンダ大使館はなんというか、世田谷区の住宅街にぽつりとある、ただの家である。しかも、まさかの賃貸。
まあ、見た目はどうでも良いと思いつつ、中に入った。
「すいませーん」
5回くらい呼びかけると、やっと中から50歳以上はあるだろう、女性が出てきた。
「なんの用?」
めちゃくちゃぶっきらぼうに、そう言われた。
「ビザの取得に来ました」
「はあ、とりあえず、中に入って」
なんだか面倒くさそうに、そう言われ、靴を脱いだ。
こっちは光が丘、ほぼ和光市みたいなところから、遥々来たのに(これは僕のせいですね)、対応が冷たいなあ、と思いつつ案内されて中に入った。
「で、書類は?」
「あーそれがですね。リンクが切れていて、プリントアウトできませんでした」
こう友人が釈明すると、大使館の方は椅子から立ち上がり、こう言った。
「ではお一人様、印刷するには四十円かかります。
というかね、なんでわざわざ大使館に来るんですか?アライバルの方が楽なのに。お金もアライバルだと、30USDで済むのに(この人は、最近ビザの取得にかかるお金が50USDに値上がりしたことを、なぜか知らなかった)
日本の方はね、理解されてないのですが、ビジネスはまだしも、観光ビザくらいだったらアライバルの方が楽ですしね、ルワンダ政府の方も、アライバルを勧めているんですよ
それなのに、わざわざ大使館まで来て、観光ビザを取る理由は何なんですか?」
そのあまりのまくしたてに、圧倒されつつも、
「あの、せっかくなので、大使館でビザを取ろうと思いまして。大した理由じゃないんですけど」
と言った。
すると、その女性はため息をついて、こう言った。
「それならば、まあ、こちらでやってもいいんですけどねえ!
じゃあ、航空券の証明書は持ってきたんですか?」
向こうも、たかが1週間の観光のために、ビザを取得する手続きをするのが面倒というのもあるだろう。ここまで言われて、アライバルを取らない選択肢はなかったので、
「アライバルにします」
こう告げた。
その女性は結局、我々に一度も笑顔を見せることはなかった。
なんて冷たい女性なんだと、大使館に来るまでの道のりの険しい道のりを(自分のせいですね)思いやりながら、自由が丘駅前の定食屋さんで、優しい友人と唐揚げを食べて帰った。
ルワンダの人々は、フレンドリーでとても優しい。
ぜひ、アフリカに来て優しく、包容力のある人々と触れてみないか?
おしまい
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