見出し画像

パジャマを脱いで出かけよう〜目の不自由な人、1人で動物病院へ行くの巻

盲導犬歩行になってから、切っても切れないのが動物病院。
予防接種や健康診断など、犬が長く健やかに歩いてもらうためには、病気でなくても年に数回はお世話になっている。

でも、1人で行くにはいろいろ大変で、いつも家族の休日に同行してもらっていた。

何が大変かと言うと、病院のシステムが車での来院を前提にしているということ。
これは動物病院に限らず、車社会の地方都市では全てが必然的にそうなってしまう。

仕方ないとは思いつつ、車が運転できない人には優しくない。

少し前までは、まず受付時間に並んで順番を取り、順番が来て渡されていた発信機のブザーが鳴ったら、再び来院するというアナログシステムだった。
車の人は呼ばれるまで買い物に行ったり、家に帰ったりできるが、そうでない人は下手すると2、3時間待合室でぼーっと待つことになる。

だからもし私が1人で行った場合、見えないのに、よく知らない場所で頼る人もないままぼーっと座り続けることになる。つらい、つらすぎる…いくら盲導犬が賢く静かに待機できると言っても彼女だって辛いだろう。

それが最近、LINEでの受付システムが導入され、早朝に病院に並ぶ必要がなくなり、LINEから予約して呼び出された30分以内に来院すれば良くなった。
ずいぶん便利になったが、それでもまだ見えにくい私が1人でタクシーを使って行くにはいくつかのハードルがあり、動物病院へ行く時は家族の休日に付き合ってもらっていた。

でも病気や怪我がうまいこと週末にやってくるわけもない。

ある日、ちょっとした緊急事態がやってきた。

緊急事態とはいつも突然やってきて躊躇する暇を与えない。それが緊急事態と言うものだ。
その場に及んでも1人で行くことにためらい、うじうじしている私のお尻を、早くしないと、姫がどうなってもいいのか!と容赦なくつついてくる。まるで、突然バンジージャンプの飛び台に連れていかれて犬を人質に飛ぶのか飛ばないのか、迫られている感じだ。
大げさに聞こえるかもしれないが、目が見えにくいと、こんな些細なことにも、いちいち自分の弱さと対面し、それでもどうにかこうにか自分を知ったし、勇気を奮い起こすと言う1連の作業をこなさねばならない。

そんなわけで、意を決して何とか1人で動物病院へ行くことになった。


病院の中の様子は、それまで何回か家族と言っていたので、なんとなく勝手もわかっている。私は家族や誰か他の人が同行していても、常にその空間を把握しようと頭の中はフル稼働をしている。見た目には「よく目が見えてない。ぼんやりした人」に映るかもしれないが、それはまやかしの姿で、中身はスパイなのだ。、気をつけよう、あなたは見られている。

…話がそれた。元に戻そう。

ハードルは、LINEでの予約の行程と呼び出されてから30分以内にタクシーで病院へ行くことにあった。

見えない見えにくい人でも、iPhoneのアクセシビリティをVoiceOver設定にすれば視覚を使わずとも音声のみでスマホの操作ができる。
そしてLINEはVoiceOverでも比較的使いやすいので普段から使っている。

LINEでの受付は「受付ボタン」を押せば良いだけなので、私でもできる。ただ、その後、事前問診への入力を指示される。音声入力できればこれも問題ないのだが、この画面になるとキーボードがどこかに隠れてしまって音声入力ボタンの表示の仕方がわからない。それで入力する術がない。
でも、事前問診は必須ではなかったので、最低限受付ができて順番が取れればよしとする。詳しい事は言ってから説明すれば良いのだから。

そしてもうひとつ、LINEで呼び出されて30分以内に病院に着けるか、と言う心配。
タクシーがすぐに来てくれれば問題なくクリアできるのだが、運転手不足と、観光需要復活で、近頃来て欲しい時に全く空車がないという自体がたびたび発生するようになり確実ではない。全国的に観光需要が生活者の足を奪っていると言うニュースを聞くが、それは私の住む田舎町でもひしひしと感じる。

LINEの受付システムは、自分の順番が今何番目か常にわかるようになっており、2番目になったら呼び出される仕組みだったので、私はそれより少し早めに自分が3番目になったらタクシーを呼ぶという自分なりのルールで対処することにした。

それでもまだ心配だったので、あとは事前に病院に電話して視覚障害者が1人で行く事情を話し、問診入力できないこと、呼び出しから30分以内に来院できないかもしれないことを伝えておけば、もう安心。やれる事はやった。

こうして、無事に病院で処置をしてもらい姫が大事に至らなかったアンド感と、これで次回からは1人でも行けるという達成感にやれやれ、と胸を撫で下ろした。問題があっても、一つ一つ冷静に、丁寧に、つぶしていけば、たいていの事は何とかなるのだ、といつも思う。それを見えにくくなってからのこれまでの体験の中で実感しているから、怖さより勇気のほうを選ぶことができるのだろう。


そして1週間後、経過観察のため、再び1人で来院。
するとさらなるうれしい変化が起きていた。

あれ?先生も受付の人も、私へのサポートがスムーズで上手になってる!

先生は自ら待合の良さそうな席を選んで自分の腕を差し出し誘導してくれる。

受付の人は前回私が気づかぬうちにひらひらと床に落ちてしまっていた領収書を、今回はしっかりと確認しながら手渡ししたり、錠剤薬を飲ませる時にわかりやすいようにと1回分ずつハサミで分割してくれたり。

今まで家族が同行していたときには、感じられなかった変化。

たった1度、1人で行って1人で困ることを伝えただけで、翌週にはもう変化している。

やっぱり1人で行動するって大事!

同行者がいると、こちらと相手のやりとりは全て同行者を介した互いに中途半端なものになってしまうんだよな。

でも、真剣に困っていることを直接伝えれば、相手だってちゃんと対応してくれる。
見えない見えにくい人たちへの理解を本当に深めたいなら、通訳者を介さない方が生身の会話ができるに決まっている

見えにくい中で、1人で行動する事は決して簡単なことではないけれど、そうやって1人で行動して直接相手に何かが伝わったときの爽快感や世界の開ける感じは本当に楽しいし、少しだけ見えない。見えにくい人の広報活動ができたような気にもなる。

だから私は行けるところには1人で行きたいのだ。

家族や同行援護ヘルパーさん、私の見えにくさを理解してくれる友人や知人。
そういった人たちのおかげで、私はいつも暖かい毛布に包まれているような大きな安心感をもらって生活できている。

それは、いつでも帰れるシェルターのようなもので、おかげさまで私が心穏やかに安定して暮らせる、生きるための土台と言っていい。

だからついつい、毛布を剥ぎ取ってパジャマを着替えることが億劫になっちゃうんだけど、えいやっ!と毛布から出て洗いざらしのシャツに着替えて外の冷たい空気を浴びてシャキーンとすることも気持ちいいから、やっぱりそれを忘れない人でいたいと思うのだ。

ずっとパジャマを着たままの人生は面白くない。

…ただの動物病院に行ったという話。

それを長々と書き記すのは、いつか毛布から出られなくなったときの自分にそれを剥ぎ取る勇気と爽快感を思い起こさせるためなのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!