だから僕は泣く。ちょっとの切り傷くらい我慢してでも、抱きしめたくなるような気持ち。
昨日、1年ちょっとぶりに、アベンジャーズのエンドゲームを観かえした。細かい話は省くけれど、やっぱり感情がぐちゃぐちゃになって、ほぼ全編泣いていた。最終局面はほとんどえずいていたし、ティッシュ箱のストックもなくなってしまって、鼻水を飲んでいる状態というのを久しぶりに体験した。ということで、なんで心が動くと、泣くんだろう。ということについて書きたいな、と思った。
小さい頃からよく泣く子どもでした。
もちろん悲しいことや思い通りにならないと泣いた。
あと、怒ると、怒りを行動や言葉に表す前に、泣いてしまう子どもだった。
学校帰りに、給食袋を誰に向けるでもなく、振り回しながら泣いていたのを思い出す。
悲しいだけじゃなくて、嬉しいことや、感動や、切なさでもよく泣いた。
そうだなあ。覚えているのは小五の運動会のあと、別に運動が好きでも、活躍できるわけでもなかったけれど、なんだかその「おまつり」が6年生のあと1回しか残されていないことが無性に切なくなって、涙ぐんでたなあ。
好きだったミスチルの曲を聞き、まだ大した恋愛もしたことがなくとも、恋や愛や生きることや死ぬことに想いを馳せて泣いた。
この涙が、どこから来ているものなのか、僕はいまだにわからない。
でも、30という「おじさんのエントランス」に立っても、たぶん、あの頃泣いた心の動きと、いまのおじさんの心の動きは、たぶん同じだと思う。
心が動いた。ということが、僕は何よりも先に涙として出てくるのかもしれない。
ランドセルの金具を勝手に開けられていたことに気づかず、中身を全てぶちまけ、その怒りが何よりも先に涙として出てきてしまったように。なんで泣いてるのかわからなけれど、泣いている。泣きながら、「ああ、俺はこれこれこういうことに切なさや嬉しさを感じて泣いているのだなあ」と考えている。
宮崎夏次系、という漫画家さんがすごく好きで。彼女の初めての単行本「変身のニュース」が出て少ししたくらいから読んでいるのだけれど、読むとだいたい泣く。なんで泣いているのか、読んでいる時もわからないし、いまなおわからない。ただ、心が動く、なにか根っこのようなものが通底していて、言葉にできないそれを見つけて泣いているんだと思う。
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ちょうど今日、まだ読めていなかった『なくてもよくて絶え間なくひかる』という単行本を読み、これまた泣いた。それで、エンドゲームといい、これまた、と思い、この文章を書いているわけです。
心が動くとき、だいたい、すこし、ちょっと痛い。心が。
擦り傷と切り傷の中間くらいの傷。すこし血が滲んで、ぎゅっと押せば、血がすこし出てくるような塩梅。そんな傷があるのはわかっているのだけど、強く、つよく抱きしめてしまって、痛いし、血もすこし出てるし、涙は流れている。痛いから泣いているんじゃない。泣きながら、自分の心のちくりとしている部分を見つける。
自分の位置からは見えない、なにか大事な根っこは、きっとそこにある。
最近の言葉で言えば、「エモい」というやつだ。
書いていて、すこし腑に落ちたところがある。「エモさ」が、人によって違うということ。「ヤバイ」はシンプルに意味の守備範囲が広すぎて、なんでも表せるから人によって違うのだと思うけど、エモいはちょっと違うなあ。と思った。
自分の中にあるなにか大事な根っこのようなものは、ひとそれぞれだ。
普段は見えない土だか水だか肉だか井戸だか、なにか深いところに埋まってるそれが、共鳴して、動く。感じる。なにがそれを共鳴させられるかは違うから、エモいという言葉の使い方はひとによって違うんだなあ。
最近、俺はなにが好きなんだろうなあ、なんで好きなんだろうなあ、とふわふわ考えていた。けれど、昨日今日ですこしわかった。自分の深いところにあるなにかが動くとき、僕は泣く。動かしてくれたものは、たぶん僕と根っこを同じくしていて、なにか大事なものが含まれている。好き嫌いを超越して、それは自分の一部だろうから、それを頼りにしていけば良いんじゃないかな。
〜〜〜
というところで、25分。
なにか言葉にしたい時に、なかなか腰が重くて上がらないので、「25分で書いたものをそのまま、ポン出ししてみる」ということをやってみようと思った。入り口だけ決めて、そこからどこに辿り着くかはわからない。いや、いま読み返してもないから、どこかにたどり着いたのかもよくはわからないのだけど、今日はひとまず、それでよい。
なにより、1月に記事を書いてから次の記事が7月になった男です。
10日ほどで新しいなにかを書けているだけ、とても上出来。とも思わなければ。ね。