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暮らしは徒然な試練の連続だ、なあ。


   暮らしは細かな、解決すべきことがたくさん襲いかかってくる。


   この春、埼玉から長野県の真ん中のあたりに移住した。
5年以上前に訪れたゲストハウス、そしてこの地域を気に入り、いつかは住みたいなあ、などと考えていた。そんな夢見がち青年、世の中はコロナ禍に置かれ、あれよあれよと在宅が中心の働き方になり、結婚をし、奥さんはフルリモートで働けるようになり、
「犬が飼えて都心にアクセスできる、という条件でこの埼玉の地に住んでいるのに、都心に行くことは月に1度、これ如何に」と、本気で移住を考え始め、気がつけば、トントン拍子で移住をしてきた。
もし全国トントン拍子選手権があるなら、関東甲信代表になれるくらいには、今年日本で鳴らされたトントン拍子の中でも、かなり通る響きのトントンであったと思う。


   そして、暮らしは試練の連続だ、という話である。しかも、大抵は結構どうでも良く、しかし解決せねば生活は滞り、試行錯誤を要するような、難易度が高いのか低いのかわからない試練だ。

関東を中心に、10月にしては数十年ぶりの寒波が先週襲ってきた。長野の10月といえど、日中は20度を超え、夕方以降の冷え込みを気にして纏ったニットを後悔しながら汗を拭っていた少し前の自分を、意味もなく引っ叩いてやりたいくらいの寒波だ。長野だけの話ではなく、東京も相当の寒さであったようだが、寒波がやってきた当日の自分は「これが長野の洗礼か」と、物理的にも心理的にも震え、慄いた。


   長野だけではない、と知ってほっとしたが、ホッとしている場合ではなかった。例えば今日、10月23日に東京や埼玉は最高気温20度くらいであった。「先週は寒かったねー、秋どこ行っちゃったんだよー、って感じ。笑」とスターバックスラテをグイッと飲み干し、物理的にも心理的にもホッとしているかもしれないが、長野は昼マックス10度ちょっとの気温を続けている。寒波が全然去らない。
もしかしたら本当にこれは長野の洗礼だったのかもしれない。地元の人も、「今年は寒いねー」と苦笑混じりに言っているが、こちとらこの寒いのが初長野なのである。こんな速度で「冬が始まるよ」されても、こちらの冬はまったくブルペンで肩を温めていない。


   そんなこんなで、ゆっくりと進めていた冬支度を、一気に仕上げていかねばならなくなった。家電量販店に行けば、「まだホットカーペットは並んでなくて」と言われた。実家からいただいたストーブをつけようとしてみれば芯がダメになっており、灯る炎はターボライターを3本並べたくらいのものだった。通販であたりをつけていた暖房器具を頼みまくり、届いたストーブの芯を軍手を灯油まみれで交換しながら、「交換して着火した瞬間に爆発したらここで俺の命が終わりか」などと、爆弾処理班の心持ちで内炎筒を器具に差し込んだ。ストーブは優しく温かな炎を灯してくれた。映画「北京原人」は語り草になるくらいひどい映画だったけれど、今日だけは北京原人の文明的発見に感謝をしなければいけない。ありがとう北京原人。


   まだまだ、すべきこと、考えるべきことは山積みだ。築50年の木造建築は隙間風だらけ、これを埋めなければとGoogle先生に尋ねるやら、放置している雑草を刈らねばならぬと思いながら「この寒さで自滅して枯れ草になってくれ」と思うやら、寒さに強いと言われるもおそらくこれは「さすがに無理っすw」と音を上げ始めている柴犬の寒さ対策をしなければならないやら。


   これで、1月には子供が産まれてくるというのだから、旦那たる私はまったく追いついていない。こちらはまだ、暖をとる計画と実行で一杯いっぱいである。11月には子供が産まれてくるまで1人で生活を回さねばならないと思うと、日々暮らしのことに取り組まねばならない。
   改めて、自分のパソコンに並ぶ「考えること・やること」のリストを見回してみても、「7つの習慣」に則って仕分けをしたら全部「重要ではなく、緊急でないこと」に放り込まれてしまいそうな、暮らしの雑事が並ぶ。
しかし、この一つひとつを熟考し、乗り越えていかねば、犬か私のどちらかは凍死するし、子供が産まれた暁には、寒さに震える親と犬、泣き叫ぶ子供、ぼうぼうの庭木、凍結して爆発する水道管、この木造家屋はカオスで満たされる。
今の自分にとってそれらは間違いなく、「重要かつ緊急」にトリアージされるべきタスクたちだ。


   実家で安穏と暮らしていた、子供時代。あの暮らしが、如何に、両親が積み上げ、組み立ててきたもの、乗り越えてきた試練によるものであったかを思い知らされる。まさか、その裏側の世界には、10度を切ろうかという自室で、フリースとダウンを着込み、かじかむ手を温めながらキーボードを打つ暮らしがあろうとは思うはずもない。


   しかし、希望が持てるのは、少しずつ、暮らしを組み立てていくことに「上達」してきている自分も感じることだ。1人暮らしの頃も、1人でそうやって暮らしを回していたはずなんだけれど、まったくもって求められる物量と質が違う。そこに少しずつ慣れ始め、余裕も出、楽しめるようになっている自分もいる。


   いま先ほど、タンブラーに注いでおいた白湯が少し熱すぎたので、水を足し、蓋を閉めた。内容量ギリギリまで迫り上がっていた白湯は、しっかりと飲み口の隙間から溢れ、ちょうど良い人肌の温度になったお湯がバシャッとスウェットを濡らした。家の中だけれどハンカチをポケットに忍ばせることを学んだ今の自分にはなんてことない。へっちゃらだ。ちょっと熱かったし、濡れた股間の部分が今はちょっとひんやりして煩わしい。できれば脱ぎたいくらいには冷たさを感じる。いや、でも、へっちゃらだ。へっちゃらということにしておく。


   この徒然なる試練の連続。これが暮らしであるというのなら、立ち向かって見せよう。時折心は折れるし、ふて寝もするが、まあ、なんとかやっていこうじゃないか。

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