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珈琲を淹れた日

毎日が忙しい。
それは現代人にとっては別に何か特別な事ではない。
皆が忙しい。

だから、用事は簡潔に、話は短めに、行動は的確に。
これが常識。

今朝も僕の書斎ではコーヒーメーカーがうなった。
カバーを開けて細挽きされたエスプレッソ用の豆を入れ込む。

あとはボタンを押すだけ。
お湯割りで、カフェ・アメリカーノ。

これが日常。
珈琲片手に画面に向かって仕事を始める。
起床後5分で仕事を始められる。

なんとも便利な時代だ。

世の中は物凄く効率的になった。
多少のお金をかければ、無駄は次々と省いていける。

掃除機がけだって、今やロボットがやってくれる時代だ。
お米を炊くのだって、水と米を入れてスイッチを押せば、美味しく炊き上がる。
洗濯だって、洋服と洗剤を入れれば、乾燥までやってくれる。

愛車の洗車だって、600円で機械がやってくれる。
それかもう少し払えば、人がやってくれる。

お金を稼ぐようになれば、更に時間は貴重なモノになり、アウトソーシングと機械化でサービスは受け放題。

今やコンビニで100円で珈琲が飲める。
マシーンが入れてくれるから、お洒落なだけの珈琲チェーンよりも味も悪くないくらいだ。

そんな時代の中で僕達は汗水を垂らす事がなくなったかと思えば、ジムで汗を流し

空調の効いた部屋で巣篭もり出来るのにキャンプに行き
時に手を汚す娯楽に勤しむ。

きっと、何かをしてもらって、何もかもが最適化された世界の中では僕達は生きていけない。
色々な事を効率的に考えるようになって、瞑想やマインドフルネスが流行るのも、そんな理屈なのかも知れない。

ゴリゴリと豆を挽く。
チマチマとお湯を注ぎ、ガラスに珈琲を溜めていく。

なんだか、特別な味わいに感じるが
それはきっと勘違いだろう。

でも、それはとても本質的で大切な勘違いなのだと思う。

「時短」という正義に逆らって得た
革命の成果だ。

フィルターを洗って、ミルを掃除する。
コーヒーメーカーなら洗浄まで自動だし、珈琲を飲むまでにかかる時間も物凄く短い。

そして、ちゃんと美味しい。
そして文句も言わず働いてくれるコーヒーメーカーに
頼まれてもいない休暇を与えて
自分で珈琲を淹れる。

効率化された日常の中で勝ち得た
非効率な贅沢。

僕達は一体何を求めているのだろう。

テラスに出て珈琲を飲む。

クリーンで静かな環境からワザワザ野外に出る。
鳩が鳴いている。

別に綺麗な声ではない。
日差しが強すぎるし、本を読もうにも紙が白く光りすぎた。

何もせずにただ、珈琲を飲んでいた。
あれが最高の贅沢だった。

洗い物をして、デスクに戻る。

いつもの珈琲をコーヒーメーカーで淹れる。
機械が唸っていつもの珈琲が出来る。

いつも通り美味しい。
珈琲のマグと共にいつもの仕事に戻る。

効率よく仕事を叩いていく。
少しでも多くの情報を少しでも早く簡単に裁く。

お金を稼ぎ、再投資して
生産量を増やしていく。

デスクに戻れば、日差しの中で鳩の声を聞いていた僕はもう居ない。
効率を重視しなければ、この忙しい社会には適応出来ない。

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