友人への手紙
僕は友人達へ手紙を書き始めた。
もし、僕が死ぬのであれば、言葉を残したい。
しかし、僕の文章には価値が無い。
それでも言葉を残したいと願った時に個人間の交友の中であれば、その文章の意味は幾分か、あるのではないか、と思えた。
友人に手紙を書いている時、僕はとても強い畏敬の念を覚えた。
この手紙を書く、という発想はリルケの触発されての事であったが、実際には僕はカブスとなった。
高尚なリルケに憧れつつ、世俗的な消費社会に生きた愚鈍な男に。
まさに僕自身にお似合いだと思った。
あと、3人。
僕は手紙を出したい人がいる。
いや、もっと多いかもしれない。
しかし、今は手紙を出したい候補者の3人へ手紙を出す事を強く恐れている。
一人は大切すぎるが故に、一人は若すぎるが故に、一人は尊敬しすぎるが故に、手紙を出す事を躊躇している。
しかし、終わりまでには出さなくてはならない。
この試みは遺書ではない。
ただ、真に死を覚悟した時、僕に手紙を書く余力が残っているか、自信がないのだ。
僕には立派な死を有意義たらしめる程の文章を書く自信がない。
だからこそ、死がまだ遠い内に、この行いを完了させておきたいのだ。
だから逃げ回りながらでも、この行為を終わらせるつもりでいる。
時には僕を忌み嫌う人にも手紙を書く事にもなるだろう。
ただの謝罪文も書く事もあるかも知れない。
いや、謝罪文を含めれば、僕は随分と長い間、手紙を書く為に生き続けなければならなくなるだろう。
きっと書ききれない程、謝罪すべき人は居るだろうから。
しかも謝罪文を書くのも、結局は逃げなのだ。
大事な事は今の生きている時間の耐え難い曖昧さと退屈と、自らの肉片が剥がれ落ちていくかのような苦痛に抗う為の生の時間に許された畏敬と感謝と懇願の発露なのだ。
僕はまだ、世俗に繋ぎ止められ、くだらない日常の雑務に身を割く。
まだ、それだけの気力は残っている。
終わりに向かう縮小の時間の中で、自らの無能さに打ちひしがれながら、時々、心が破れるような痛みを感じながら、日常を生きている。
向上の高まりが人を苦しめたように、縮小と崩壊の決意は自らを苦しめる。
これは正しさと合理主義の邪教に身を染めた罰なのかも知れない。
それはきっと死を凌駕する程の苦しみを人に与えて、僕は死ぬまでに、その罰を受けなければならないのかも知れない。
翌朝
少し睡眠を取って、精神を落ち着ける。
まだ仄暗い陰鬱からは立ち直れずにいる。
友人からの手紙の返事が届いてくる。
精神の落ち着きは睡眠によるモノなのか、友人からの返事か、それとも昨晩作った金銭的利益か、今は分からない。
経済的枠組みが僕を延命する。
もはや、意図的な生産性向上をミッションとしなくなった僕を生に括り付けている。
金銭的利得の享受を他力本願で行う事など、ずっと無かった事なので、吐き気がする程、自身が弱々しくなった感覚がある。
今までは投資利益は自らの知性によって導かれていたという実感が僕にはあったのだと自覚した。
それがないという状況は、まさに他人に生命維持装置の電源を握られているような恐怖感を僕に与える。
そして、今までも、その苦悩の中に多くの人が止まって、それでも明るく生きようと努力をしてきたのだと感じる。
僕には出来ない。
自ら戦う事なく、外的要因に自らの生を預け、その恐怖に怯えながら、それでいて生かされるだけの中で、自身の悦楽に浸る権利など、僕には毛頭ないのだと感じてしまう。
そして、それは手紙を送った友人達に対しても同じで、彼らが僕を助けてくれるなどと、望んではいけない。
僕は消散を味わいながら、自らの生の残りの遺物として、尊敬と感謝の中で手紙を書き、その中に混在する不純物として助けを懇願し、その醜さも共に記述しながら、言葉を紡ぐだけだ。
人生の終わりに
30歳を過ぎて、僕には年齢的にまだまだ殆ど人間としての可能性の大半が残されていて、正直、この後の自分の物語を如何様にも書き換える事が出来るのだと思う。
この陰鬱さは、その土台を作ってきた、この長い年月、人生の前半三分の一が終わり、これから中盤戦が始まるという機会に起きた序幕の終了でしかない。
僕の人生はまだまだ、これからなのだ。
それはきっと年齢というモノに定義され、この後、如何様にも生きられるという野に放たれた広大さが引き起こす不安感なのだ。
もう暫く長い間、色々ある中で生きてきて、これがまだ序章に過ぎなかった事を思うと、そのスケール感に吐き気を催す。
そして、ここまで戦ってきて、そして、この後はまた違う物語を演じる事に対する、何らかの決意が必要なのだ、という事を強制的に気付かせてくる。
まだまだ終わらないのだ。
だからこそ、終わりを描いていく事から、僕は物語の始まりを演じようとしているのかも知れない。
人生の終わりを思い描く事は、これから、今まで生きてきた分と同じ時間を衰えの中で生き、その後は弱りきった存在として、また、それと同じだけの時間を生きる、という絶望的な人生に対する竦みでしかない。
だからこそ、終わりを生きようと考えてしまう。
人生は長すぎる。
だから、終わろうとする。
終わりを思い描く事で、終わらない恐怖に抵抗しようとしてしまうのだ。
人生の本番
猫が喧嘩をしている。
いや、遊んでいるのかも知れない。
全てには違う考えもある。
いつも何かの物事には複数の見方が存在する。
僕は自らの人生の終わりを考える。
しかし、今が始まりだとしたら、どうだろう。
今、考えうる中で最も希望に満ち、そして、最も恐ろしい考え。
これからが人生の本番だとしたら、どうだろう。
今まで積み上げてきたモノは人生の本番を生きる段取りだったとしたら。
そして、僕には、もう段取りの時間が残されておらず、ここからは本番が始まるのだとしたら。
もう、予行演習は出来ない。
生身で戦い、負けたら、終わり。
戦わなくても終わり。
失敗。敗北者。
だからこそ、吐き気がする程、自由だ。
もう誰にも守られないで生きる他ない。
僕はもう守護者を失って、そして、一人で生きるのだ。
それが大人になる事だから。
一人で立って、自分の人生を生きる。
これが怖いのは、僕はずっと成熟しない子供のままで、何かに守られて生きていたいと願ってきたが故なのだ。
自分で立て。自分で生きろ。自分の為に生きろ。
怖すぎる考えで、思い浮かんだ自分を殺めてしまいたいと思う程、残酷な考え。
ただ、どうやら、それは現実なんだ。
人の為に何かを考えるというのは、結局は誰かを頼っている生き方だ。
もう大人にならなくてはならない時間だ。
戦わなくてもいい。
その時は敗北が確定するだけだ。
自分が不幸になるだけだ。
自分の意志で自分の為に戦う。
それが人生の本番だ。
その意義が、自分の為に生きる事が吐き気がする程、不毛に思えるのは、人生の意義を見つけてこなかった自分自身のせいだ。
段取り不足のせいだ。
しかし、もう段取りをする時間は僕には残されていないんだ。
戦え。
段取りもなく、自分を生きろ。
それでダメなら負けるんだ。
徹底的に、決定的に。
思い出されるのは、自分自身の無能を認識する想い出ばかりでも、それが僕自身。
それで生きて、それで勝負しろ。
それが時間がきた者の宿命なんだ。
この恐怖の中で、今まで、僕を育ててくれた、生かしてくれた、支えてくれた人への感謝が、心の中に止めどなく溢れている。
懐かしさと切望の混じった情けない感情を味わっている。
甘えている自分がポツンと突っ立ている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?