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まずは僕達の貧困を

SDGsについて語られる機会が増えてきた。
2021.9.12

僕達は今、これらの目標を再定義しても良いのではないか。と考えている。
僕達は一般的な、国際的なSDGsの基準点ではなく、自分達なりにSDGsに取り組んでも良いのではないか。
寧ろ、その方が自分達の為になり、尚且つ取り組みに対するコミットメントを高める事に
繋がるのではないか。

ステレオタイプは救われる

僕達は貧困と聞いて何を想像するだろう。
老後資金が乏しく、ゴミだらけの家で孤独死する老人だろうか。

それとも、アフリカで濁った水を啜り蠅に集られ感染症で命を落とす子供達だろうか。

彼らを救う為に社会は既に動き出している。
社会の様々な期間は彼らを救わずにはいられない。
彼らは既に可視化されているからだ。

僕達は社会的に見える者を救おうとする。
言い方を変えれば見える者から救わざるを得ない。

僕達は貧困者ではないのか

僕達は一般的に貧困者ではないとされる。
それは自助によって豊かになれるから。

これは一般的な「貧困者」のイメージとは違うものと社会に認識されている。
僕達は労働と資産運用によって豊かになる事が可能だからである。

しかし、僕達の中で、労働と資産運用によって、豊かになる方法を知っている者がどれだけいるのだろうか。
一日10時間労働をしているのに、年間の資産増加率がマイナスである人を見つける事は実は決して難しくない。

思い切って買った投資信託が目減りしていく悲しみを目の当たりにしている人も決して少数ではない筈である。
僕達は自助によって豊かになれる筈だからこそ、貧困者ではなかった。
しかし、その自助が機能しないとしたら、僕達は果たして貧困者ではないと言えるのだろうか。

公助の不安定

これから、高齢者は増加する。
これは日本社会においては衆知の事柄である。

果たして現在の年金制度でこれから増加し続ける高齢者を貧困から守れるのだろうか。
否、現在でも守れていると言えるのだろうか。

僕は子供の頃、不思議だった事がある。
何故、日本には生活保護があるのに、路上生活者がいるのか、という事だ。

当時、大人に尋ねても、明確な答えをくれる人は誰もいなかった。
「頭が悪いから」「昔に悪い事をして逃げている」とか
「手続きすら出来ない人間」だとか。
ロクでもない答えしか聞き出せなかった。
そのロクでもない答えですら、ちゃんと答えてくれる人を探すだけでも手こずった。

なので、僕は高校生の時、直接聞いた。
バレンタインデーの日、学校で出回る義理チョコをホームレスと分け合い食べながら、話を聞く事にした。
意外に思われるかもしれないが、多くの路上生活者は、その申し出を断った。
「お前が貰ったものだろう、貰えない」というのだ。

僕は「いや、義理チョコだから」と説明し、ただ受け取って貰ったり、怒られたりしながら、やっと1人の路上生活者の方と話をしながら食べる事にした。
確か、JR総武線の平井か新小岩か小岩あたりの土手の河川敷のあたりだったと思う。
これも既に記憶が曖昧だが石井さんという名前の方だったと思う。

彼は地方の元教師だった。
自分の子供が起こした問題で地元で教師の仕事を続けづらくなり、都内に出稼ぎに来たが精神的に疲弊していて、仕事に身が入らず、そのままホームレス化したとの事だった。

彼は何度も自責の念を口にした。
主に子供の教育と家族に対して、半ば投げやりになりながらの反省論だった。

その後、会話の成立のさせ方を学んだ僕は何人かの路上生活者と会話をした。
彼らはある程度話すと皆、自責の言葉を口にした。
今の状況は自分に対する罰なんだと語る人も多かった。

僕が話を聞いていた集落のあたりでホームレス暴行事件があり、彼らの姿は一気に消えた。
僕も彼らと会う事は無くなった。

僕は何故、生活保護がある日本で路上生活者がいるのか、という疑問に自分なりの答えを出した。
彼らは無知と自身の価値観によって、路上生活者となっているのだと思った。

彼らは主に自尊心や人に迷惑をかけたくない、などと言った自身の価値観と、それを傷つけずに救われるかもしれないルートと捉え方を知らない事によって、路上生活者になっていた。
それと加えて、精神的なダメージによって、その価値観の更新と、知識の獲得の意欲を阻害されているのも原因の一つだと思った。

価値観の更新と公助システムに対する知識を精神的ダメージによって阻害される状況。
これらは僕らにとっても他人事ではない筈である。

僕達は様々な段階があるものの、自身の貧困に対して無関係だと言える状況ではないのではないか、と考える。

労働資産の目減り

先程述べた公助で救われない話は全体の中では氷山の一角に過ぎない。そもそも、一般的な1日何$以下で生活しているのが貧困だとか、そういったものは指標にならない。

家がない人は分かりやすいかもしれないが、劣悪な安い不動産しか借りられない人はどうだろう。
仕事の関係上家賃の高い地域に住み、それでも18万程度の給与しか与えられずに労働している人はどうだろう。

家族構成上、大きな間取りが必要で住んでいる結果、貯蓄増加率がずっとマイナスになっている家庭は貧困ではないのだろうか。

僕は彼らも全て貧困世帯だと思っている。
そして、僕達は常に貧困化と隣り合わせで生きていると言えるのではないだろうか、と思う。

その中でも、僕が最も恐れていたのは労働資産の運用による貧困化である。
これは僕にとって一時、非常に現実味のある問題だった。
俗にいう「ワーキングプア」に若年期に陥らずに済む日本人は全体のごく僅かしかいない。

若い労働力は企業に利益をもたらすが、正当な対価が支払われているケースは少ない。
加えて、若い労働力に高い生産性を発揮させ得るシステムを有さないまま労働環境を提示している企業も多い。
その場合も彼らの薄給は確定する。

これは恐ろしい程に身近な問題だった。

加えて、熟練業務者の価値の低下も若年層の薄給の構造的原因になり得る。
熟練技能を必要とする社会では年齢の経過に連れ、技能が習熟するので給料が上がる正当なエビデンスが存在する。

しかし、正当な理由がなくても年功序列の風習が年配者に高給を施す場合、生産性の向上がないまま高い給与を得る為には他の生産機関からインセンティブを移管させ補填する事になる。
これも若年層の薄給構造を決定づける。

この制度は企業単位、社会単位で順次修正されていくと考えられるが、是正されたタイミングで若年層から中年層へ切り替わった世代は生涯を通して生産性の根本的改善が見られない限り、薄給である。

これは別の視点から見れば、労働資産(個人が働ける労働量の総数)が金融資産化(お金や財産)に変換されるシステムに不備があるという事であると言える。

つまりは働き方、働くプラットフォーム、社会によっては一生懸命働いていても貧困に陥る可能性が十分にある事を意味する。

つまり、労働資産の価値は簡単に目減りする。それは個人の機能や生産性よりも寧ろ所属する社会や企業の仕組みによって行われるという事態も充分に考えられる。

貧困は身近

僕達にとって、貧困は他人事ではなく、僕達の社会の中でいつ誰の身に降りかかるか分からずに存在している。

貧困を救う為に日本政府は多くの海外国家に対して資金援助を行い、国際機関を通して世界の貧困の解決に貢献してきた。

しかし、僕達が僕が考える貧困に陥る可能性に対しては危険度が高いと判断せざるを得ない。
僕達は貧困リスクに対して具体的なヘッジ策を得る教育も武器も手渡されてはいない。

ここで具体的な武器の配布を始める事が僕にとって、具体的な貧困に対する取り組みである。

僕なりの「貧困をなくそう」への取り組み

僕なりのSDGsへの取り組みは僕自身の取り組みの情報公開によるものである。
僕は数年前まで労働資産が枯渇し、死ぬ寸前だった。
具体的にはワーカホリック的な生活が祟り働けなくなった。

これは状況的にキャッシュフローの破綻と類似する。
一定期間にコストを支出しすぎた機関は破綻する。それが人間であっても同じである。
それは労働コストにも金銭コストにも同一の現象を観測する事ができる。

僕はたまたま運が良かった。破綻しかかった僕と言う機関を救済してくれる機関が存在した。
これもまた個人という機関で、それが今の妻だった。

妻は僕が枯渇させた労働資産を代替してくれた。
つまり代わりに働いてくれたのだ。

僕は、その期間に勉強をする事が出来た。
学習と休息は僕の枯渇した労働資源を回復させた。

僕は、その経験を元に自身を労働させる仕組みを作った。
それが今の事業体である。

学習内容が役に立ち、僕は今までの経験というリソースを運用すると同時に経験資産を増加させ、それを再度運用した。
経験という資産を複利で運用するexperience machineを事業体という形で実装した。

その機関は労働資源を金融資産や経験資産、コンテンツなどの情報資産などに変換する機能を持たせる事にした。
そして、経験資産のみならず、金融資産financial assetや人脈的な資産relational assetも複利運用する為のルールを作った。
金融資産においての複利効果の獲得メソッドはmoney  machineとして広く知られているが、全ての情報は複利的に運用する事が可能だ。

さらに言えば、全てのアセットクラスは何かしらの情報であり、その処理と、その処理によって再展開される可能性と、目的設定、その目的設定に則した可能性の収束の試みとシステム化は全てのアセットクラスにて運用可能になる。

マシン化は全ての情報記述されるアセットクラスにおいて有用である。

これを共有する事こそ、僕なりのSDGs  No poverty「貧困を無くそう」に対する取り組みである。


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