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僕の生活と僕の思考と僕の行動と

自分の生活の中で僕達は思考する。
自分の生活の中で生まれ得た思考は自分自身の行動へと一部が昇華され
また、その結果が僕達の生活を作る。

これは真実ではないが
ある程度の真理ではある。

僕達は複雑な仕組みの上で生活していて
実際は自身の思考が自身の行動を通して作り出した社会的状況や仕組みによって、自らの行動とは違ったアプローチで生活を構築する事が有り得るからである。

ただし、これに関しては僕達が意図的に生活→思考→行動→生活…のサイクルを意識する為に起こり得る複雑さであって、実際は思考と行動、思考と生活、生活と行動の領域、範疇、境界は至って不明確で複合的な概念である。

しかし、自己啓発的な文脈は思考が行動を作り、行動が現状を作っているのだとして、思考を変えれば現状を変えられるのだと説く。

実際は行動が多くの要因をコントロールしているし、行動は生活の中、つまりは現状の中で存在し、その現状内の抵抗値が思考と行動の連結性に影響を及ぼしているので、実際の処は他者からの示唆で現状を影響出来る程、甘くはない。

他者からの示唆がもたらすのは情報であり、思考や哲学や価値観の変革ではない。
情報の処理が価値観や思考や哲学、概念の調整に役立つが、他者からの示唆がそれを直接解決してくれる訳ではない。

自己啓発の動画や書籍を摂取したからと言って、人生に改善感を得られる人間と、そうでない人間が存在するのは、その情報の取得と処理に関するプロセスの精度の問題であり

摂取した情報そのものの影響ではない。
そこのプロセスを軽んじる人々は何か人生を変えてくれる情報を探し求めるが、自身の情報の取得、つまりは咀嚼力と、情報処理力、つまりは消化力に課題があるとは考えない。

どう食べるかでは何を食べるかを重視している。
その結果、上質なフォアグラを生で齧り付き、美味しい想いが出来る筈だ、と信じる。
実際は嘔吐と腹痛と落胆が待っているだけだが。

僕は単純化された価値観の中で生活が構成される事を別に不快には思わないし、それがある程度役に立つと考えている。
生活は行動の集合であり、同時に過去の思考と行動の集積体であると考えて生きる事は一定の価値判断材料として役に立つ。

つまりは概念による物事の単純化は物事を価値観に照らし合わせたり、それに従って意思決定をするのに有用なツールとして機能する。

これは非常に原始的な宗教の起こりと近い。
宗教は便利であり、高度な次元での繰り返し思考を制御するのに非常に便利である。
他者コントロールに使えてしまう程に便利で、それ故に無慈悲な布教合戦を繰り広げてきたのだが、僕の提案はそれをパーソナルに使う事である。

物事の単純化、概念化、簡略化した関係性の定義、つまりは宗教の構成要素を他者コントロールではなく、自己コントロールに使っていく事を考えてみるのである。

僕は生活の中で思考し、思考の元で行動し、それが僕の次の生活を構築する。
このパターニングの宗教は便利である。

これを最初に真実ではないと説明させて頂いた事の真意が伝わっていると幸いである。
これは僕が思考するのに便利な宗教なのである。

ただし、日常で何かを述べる時に一々それを説明する事はない。
そこに考え方を述べる丁寧なプロセスを挟むような生活をしていない、と言えば作った教義に囚われている言い方になる。

実際は何かの考え方を量産しているプロセスが宗教的なサイクルである事を自覚している人が非常に少ないので、その前提を共有する事が容易でない事に起因するかもしれない。

つまりに自身が自身が作り出した、または誰かから布教された宗教の教義を事実として捉えている事に無自覚である故に、また、それらから発される情報の咀嚼と消化に着目しない故に、僕達は真実ではない事を尤もらしい事として、サーブされた料理のように見えてしまう。

「僕は生活の中で思考し、思考の元で行動し、それが僕の次の生活を構築する」
これは特定の分類分け、簡略化、関係性の定義を便宜的に行った思考の産物、つまりは宗教religionであり、真実ではないが、有用な宗教は真理を内包する。

それ故に、この枠組みで物事を考える事に有益性があると考え得る。しかし、有用である、とは有益性がある、という事と言葉の定義上密接な関係があるのだから、この定義は役に立たないかもしれない。

有益だから、有用で、それ故に真理を含んでいる、というのは詭弁なのかもしれない。
ここから先は哲学の領域になる。
これを突き詰めるのは悪くはないが、信じて考えるのに役に立つ枠組みとして、宗教の段階にとどめておこうと思う。

それが「僕の生活と僕の思考と僕の行動と」を語る前提の話である。

何かを誰かに話す時に、こんな風に前提条件を述べる事など普段は決して無いし、これが出来るのが、活字の良さなのかもしれない。

テキストの交流は時間の同期を伴わないから、受けては好きな時間でこれを再生する事が出来る。
自身の生活のエッセイをサラッと書いてある事を期待して、今までの文章に落胆したのなら、もう、ここには読み手はいないだろうし、それを僕自身が知り、寂しさを感じる事もない。

しかし、それを避けるあまり、自身に都合の良い見解を正に真実であるかのように人々が語り合う事に、もっとゆっくりとした時間の流れの上で行われるコミュニケーションを促したくもなる気がする。

今、僕達が道理だと考えていて、合理的な見解や事実に基づいた思考だと信じているものは、網羅的とも言える程の宗教に満ち満ちていて、社会は名前もない宗教的暴動の畝りの中にあるような気もしてしまう。

だから時に自身が使う小さな流れを、これを宗教だと断りを入れて話すという、庭の小川に友人を招くような時間を、ここに記述しておく事に価値を感じるのだと思う。

僕の生活と僕の思考と僕の行動の話は、本当は僕が、どんな事を考えるような、どんな生活の中にいて、何をしていくのか、をまとめるエッセイを書こうと思って始めた。

それは経済や政治や事業やQOLの向上に関する概念の発想をテキストで記述する事の前段階となるつもりだった。

それは例えば資産形成に関する事柄や、国際情勢に対するスタンスや、景気動向と事業計画やら、の話や、料理や健康や生活ルーティンの話である。

これから僕はテキストで料理のレシピを公開し、それを誰でも作れるようにコンテンツ化する事や、同じ事を資産形成や事業計画で行う事を模索している。

これはある種の自己存在の公益性証明なのかもしれないし、マーケティングやコマーシャルの役割を果たすかもしれない。

また防災を通して大切な人を守る側の人間に留まる為の術や、真理的健康を維持する方法論について書く時は、また全く違った事を考えるのだろうと思う。

今日、今ここで、僕は僕の生活の事も、思考の事も、行動の事も、具体的に何も書く事はない。
ただ、その関連性について、真実だと勘違いされがちな宗教である、という事を語り

その上で、何故、その生活や思考や行動の話をしようと思ったのか、の動機を語り

その上で何をしようとしているのかを語った。

大した話ではない。

ただ、それを書いておく事で、文章を書く事、また僕の文章を読んでくれる人を、僕は庭の小川での休息に誘っていたいのだと言ってみただけだ。

時に強い感情に突き動かされる時、それは密室のプロパガンダを刷り込む恐怖の講義室になる得るかもしれないが
その場合はいつでも退出可能なのが、文章の良い処である。

本を閉じてしまえば、文章の語り手は沈黙の空間の中で、また誰かが訪れるのを、静かに待つ事しか出来ないのだから。

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