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経済周期と日本経済

の続き。

前回はタイトルの内容には殆ど触れずに、生産性の向上が起こっている事は間違いなく、その上で債務周期を考える時に感じる日本経済低迷の30年への違和感について触れた。

一般的には直線的右肩上がりで仮定されるマクロ的生産性向上のグラフは日本においても右肩上がりではある。
手に入る情報量も、処理出来る情報量も作れる製品の量も質も向上し、実生活では30年前の不可能が今の当たり前になっている。

この件におけるグラフの制作コンテンツは僕の仕事仲間に任せて、僕は専ら文章で、それについて考察していく事にしたい。

そして、今回こそ「通貨の超中立性とクレジットの喪失」について触れようと思う。

生産性向上曲線と債務周期

僕は長期投資による資産形成としての米国株式市場へのアプローチと短期トレードでの為替取引を行う投資家であり、日本経済は正直専門外ではある。

しかし、生産性向上曲線と債務周期について考える時、日本経済の動向は面白い資料となるので、日本経済についても触れていきたい。

まず、生産性向上と債務周期の単純化したモデルについて共有したい。

↑日本語版

このビデオは簡易的にマクロ経済の基本的な仕組みを理解するのに、非常に有用な資料だと思う。
マクロ経済について学んでみたい、と思う人は僕の記事なんて今すぐに閉じて、このビデオを見た方がいい。
特に英語版の方では、言語間における概念解釈の誤差が少なくて済むし、新たな発見もあるので非常におススメである。

生産性向上に従って、債務周期の振幅の中央値も基本的には右肩上がりになる。
そして一般的な説明に用いられる生産性向上の形状について、僕は違和感を感じている。

生産性向上線は基本的には直線的右肩上がりに描かれている場合が多いが、僕が思うに産業革命、情報通信革命、そのどちらかが、影響して今や生産性向上は指数関数的増加の中にあるように感じられる。

何故、このような単純化されたモデルや予測において直線ではないのではないか、などの僕自身の曖昧な発言が通用するのか、という視点は実際、この要素を考える上で非常に重要である、と考える。

それは「生産性向上」をどのように計測するのか、という課題の上に、僕自身の視点が存在するからである。
GDPで測ろうとする試みは実際、正直あてにならない。

例えばGDPは一般的に $換算で考えられるが、今のような劇的な円安局面では国内消費マーケットは確実に過小評価される事になるし、輸出産業は過大評価に陥る。

例えば、TOYOTAが同じ車を同じ台数作って、同じ台数を売ったとして製造コストの大半を国内で消耗しているとすれば、相対的に劇的なコスト減が発生する。
逆に街の豆腐屋さんは国産の大豆を今まで通りの価格で買い、豆腐を作って、今まで通りの価格で売る。1日3万円の利益があった場合は1$100円の場合と150円の場合では$300の利益と取るか、 $200の利益か、と実際の生産は変わっていないのに生産性は30%以上失われた事になる。
円換算にすれば、今度は豆腐屋は生産性の変化がない事が説明出来れば、TOYOTAの売上が爆増する事になる。

経済的結果と生産性の関係性の引き離しは非常に難しい問題を孕む。
結果を出した事で生産性そのものを説明すると考えるならば生産性向上線は存在せず、債務周期が生産性そのものを乱高下させる結果に陥る。

生産性は原因的元値であり債務周期が創り出す市場は関数的であり、その後に結果が訪れる。
生産性を明確に社会全域において定義するのは非常に困難である。

なので生産性向上の推移はさまざまな仮定の元でシュミレーションする事が重要になる。

重要なのは生産性向上が、どのような動きをすると、債務周期の振幅が、どのようような結果を引き起こすか仮定してみる事である。
また生産性向上が債務周期の振幅にまともな影響を与えられない社会構造が存在した場合は、どのような結果を引き起こすのか考えてみなければならない。

曖昧な生産性向上は現実か

生産性向上は結果から直接観測出来ないとすれば、人類の生産性が向上している、という前提そのものが怪しくなってくる。

しかし、30年前よりも効率の悪い方式で働き、不便な生活を送っている、という人を僕は誰一人として知らない。
主観的判断の域は出ないが、人類の生産性向上は現実である、という前提に立っている。

これは経済的視点の外側からも考えてみなければならないかも知れない。
例えば女性の権利やQOLの追求やライフワークバランスや、奴隷制の有無や市民の主権が実現度が高まる事も社会全体が良くなっていると言える。
これが生産性向上の結果と結び付ける事は難しいかも知れないが、無関係とするのも、また違うであろう。

また経済的生産量が変わらず地球環境負荷が低減する方向性に進んだ場合は、僕達の生産性は向上したとされるべきであろうか。

曖昧な経済

マクロ経済モデルを考える基軸となるべき生産性向上も曖昧でありながら、その結果を導くのに最も一般的な価格的評価も曖昧、通貨も曖昧である。

そして、この曖昧な中で僕達は何度もマクロ経済学的視点を組み替えてきた。
そんな中で個人投資家として、どのような視点を持てばいいのか、と自問自答した結果、一つの視点が思い浮かぶ。

曖昧なモノを見ようとするのではなく
何が経済を曖昧にしているのかを見る
、という視点である。

そして、経済、生産性を曖昧にしている原点は多くの人が曖昧ではないと信じている通貨の曖昧さなのではないか、思い至った。

通貨の超中立性

やっと前回の表題の一部に戻ってきた。
通貨の中立性というのは、よくマクロ経済で語られる「通貨供給量が増えればインフレになる」的な事だと思うが、実際は超中立的だ。
通貨同士の為替、景気、生産性から需要、供給、市場心理、トレンド、様々なモノに影響を受けて様々な価格は変動し、通貨の価値も、それに伴って変動を続ける。

ミクロ経済では戦略や営業や経営の方針によって利得計算で求められる通貨の価値は、マクロ経済ではカオティックな様相に陥る。
様々な要因の掛け合わせ、それも論理的でないモノまで含めた超中立的である通貨価値はカオスそのものである。

実はミクロ経済、つまり個別の事業や家庭においては通貨の価値は、ある種、固定的に考えて戦略を組まなければならない。
そして、マクロ経済に対峙する投資の世界では、決して通貨の価値を固定的に考えてはならない、と考えている。

僕は投資家であり、事業家であるが、何を行うかによって通貨価値に対するモノの見方はまるで違う。
投資の世界では$100で買ったモノを $90で売っても儲かる事があるが、事業では、このような考え方はしない。
また事業では100万円で買った資材で120万の利益を産めば、正しい判断だと言えるが、投資ではそうとは言い切れない。

僕は、この視点を非常に重要視している。

そして、ここから日本経済の低迷の謎に対しても部分的仮説を立てられる。
日本円の価値を疑わずにマクロ経済が動いているように感じてしまっている。
日経平均の比較はいつも必ず円換算で考えられる。
そして円が超中立的な振る舞いをする事を加味しない。

つまり、 $1が75円の時も150円の時も日経平均は常に円でだけ考えられる。
実際、バブル期は160円くらいの$価格である点から考えればドル換算で75円であった時点ではどうであっただろう。
その時の日本の物価動向はどうであっただろう。
物価が安くて $安である場合の $換算の日本円の価値は非常に高いのではないだろうか。

我々はずっと30年間、低成長であったと思っている。
しかし、その固定視野的態度では、僕達の経済が良くなっている事にも気が付けず、勿論、悪くなっている事にも気付けない。

そして、そんな国民が選んだ政治家が政治をしている。

日本という国がこの100年、150年の中で、どれだけ変化をしたのか。
その歴史と超中立的な円の価値、日本経済の価値、生産性について考えてみる。

その舵取りがされていないとなれば、正直、もはや、全く自国の生産性向上状態の計測の試みすら難しく、債務周期のコントロールは難航を極めるだろう。



また第一回の表題の「クレジットの喪失」までは辿り着かなかった。
ここからは前提や過去に対する考察ではなく、今後の市場を見ている話を書いていきたい。

非常に雑な進行で申し訳ない限りではあるが、これからも書き進めていきたい。

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