嶺南の風景~海へ行くつもりじゃなかった~
嶺南(れいなん)
福井県の若狭国と越前国敦賀郡(現・敦賀市)の範囲
木ノ芽峠(木嶺)以南の地域名。
福井県をゾウに例えると鼻の部分、と覚えましょう(?!)
木の芽峠(628M)は、かわいい名前に反して北陸道の難所であり、福井県はこの峠の南北で気候や文化、帰属意識が異なるようです。(嶺南→京、嶺北→北陸)
嶺南の市・町名はこんにちでは関西電力の電子力発電所のイメージが強いですが、
古代より都に近く、大陸文化を受け入れてきた重要な外港でした。
嶺南は明治時代には滋賀県に編入されていた時期もあるそうで、文化的共通点の多い地域。
郷土史を下手の横好きな私が嶺南をスルーするわけはないのです。
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さて。今日(1月初旬)はたぐい稀なるフリーダムな休日。
夫が実家に帰っているってわけ。羽伸ばす!(笑)
ただしカーはなく、末のベビィ(3)がいる。こんな休日は、屋根には雪がうっすら残っているけどひきこもるには惜しい気温。
「おかいものいこ」
「車がないんよ」
「じゃあ、でんしゃ、のろ」
と言われたので、当て処もなく駅まで歩く。
電車乗るのなんて年に3回くらい。
駅から北へ、東へ、西へ・・・?色々の可能性を考えては、ベビィの体力を考えて躊躇。でも心ひかれたのは北陸の冬景色でした。
北陸線は本数が少ない(日中は1時間に1本程度)駅ホームものんびりとした空気が漂っている。
私と同い年の黄ばんだ中古の文庫本を持ってホームで北陸線を待ちました。
(感想と思索・ご興味があればどうぞ)
・JR敦賀駅
3月の新幹線開通に向けて駅前周辺が綺麗に整備されていました。
15年ほど前、この駅前で月イチのフリーマーケット的なやつに出店していた頃とは様変わりしていました。(アトリエトモコの前身というべきハンドメイドショップでした)
待合室広くてキレイであったかい!と浦島太郎状態。
まあ、商店街や街並みはあの頃のままでほっとするような。
・紫式部の歌
「知りぬらむ 行き来にならす 塩津山 世にふる道は からきものとは」
訳:あなた方(労働者)はよくご存じでしょう 行き来している 塩津山のように 人生という道は 世知辛いものだと(塩津だけに)
・・・私、育児の苦労もよく存じておりますの。
・気比神宮(けひじんぐう)
北陸総鎮守。主祭神:伊奢沙別命(イササワケ)
摂社に角鹿神社(つぬがじんじゃ)=敦賀の名前の由来と言われます。
持ってきた本によると気比は息長氏の聖地で、イザサワケは新羅から来た王子、天日槍(アメノヒボコ)の別名。イ(美称)・ササ(鉄)・ワケ(男性の敬称)だって。
イササワケ=アメノヒボコ≓ツヌガアラシト≓スサノオetc.
稲作と製鉄などをもたらした渡来の男神という雑なカテゴリでくくると、共通項が見いだせそうです。
「邪馬台国の王になり損ねたドジな男、古代版チャラ男に太陽神を連想させる、天日槍の名は重すぎる」(関裕二/「アメノヒボコ、謎の真相」)などと言われますが。
少なくとも敦賀の地には古代から継続的に渡来人の上陸と交流があったことは推測できますね。
気比神宮について詳しくはこちら↓
・同い年の文庫本
金達寿(キムタルス)『日本の中の朝鮮文化5 若狭・越中・能登・越後ほか』
これは朝鮮出身の著者が1970年代・日本各地にある古代朝鮮文化を訪ね歩く紀行文。
金氏は、私が神社が面白いと思うきっかけになった岡谷公二氏が推していた作者なので、つまり「推しの推し」なので古本を取り寄せてみた次第。敦賀についての記述ももちろんありました。
いささか民族主義的で首をひねる記述もありますが、歴史認識とは自己愛の延長。
日本において渡来人の影響がない地域の方が珍しいだろうし、この地名は古代朝鮮語では・・・の意味。などという切り口も面白いです。
本文より
~現美浜町・菅浜集落には「川で洗濯物を棒で叩いたり、足で器用に踏みつける」習慣が未だ残っていると聞いて、これは朝鮮の砧(きぬた)と同じじゃないか。と祖国の原風景を思いだしノスタルジーに浸る筆者一行。
「ぜひ、乙女にやってみせてほしいなぁ、まあバーサンでもいいから。モチロンお礼はしますよ~」→(洗濯機が普及した)「そんな、むかしのことを言われても・・・」と地元の婦人方に一笑に付されてしょんぼりするエピソードなど。クスッと笑える旅行記でもあります。
以上。
海へ行くつもりではなかったのですが、気まぐれにふらりと立ち寄った敦賀港と気比神宮でした。
他にも気になるところを周りたかったのですが、いかんせん路は世知辛く、季節は冬。電車と子連れで行く場所ではないことを痛感しました。今度は車で。
ベビィはよく歩いて楽しんでくれたようで、彼のあそびリクエストに「でんしゃ、のろ!」「うみ、いこ!」が追加されたことは言うまでもない。