柳をめぐるタイムトラベル#5〈杞柳の歴史は水害の歴史 その2 ー杞柳からエノキタケへー〉
〈杞柳の歴史は水害の歴史 その1 ー郷道政之丞さんが遺したものー〉に続いて、郷道さんの子どもの頃、昭和30〜40年代のお話を紹介します。郷道さんが子どもの頃は柳の景気がとてもよく、家も新しく建て替えることに。ところが……。
「栽培も編む方も全部やっていたよ」
ーー郷道家でも杞柳(柳)を栽培していたんですか。
郷道:うちは栽培も編む方も全部やっていました。柳をとってきて、柳の皮をむいて、干して、それをひごにして。若いしょ(若い人)が来て柳行李を編んだり、冬は女性が来て、かごとか、自衛隊に納入する弁当箱とか、いろんなものを作っていました。弁当箱は中に空気が入るから、ごはんを持っていく時に蒸れなくていいと言われていたようです。
郷道:うちでは行李の柳の部分を編んでいたんだけど、行李にするには縁もつくらないといけない。縁を縫い付ける家は、このへんでは西沢伝吉(つなより)さんの家がそうだったかな。それから、柳行李を編んだ後にラッカーを塗って出荷する家もありました。うちではラッカーはやらなかったけど。柳だけじゃなくてアケビを編むこともあったり、新しい素材でビニールが入ってきたり……。
ーー郷道さんも皮むきなどのお手伝いを?
郷道:嫌々ながら手伝いました。当時のことは少しは覚えていて、小学校3年か4年ぐらいから手伝っていたんじゃないかな。
郷道:杞柳って、柳の一種なんだけど、株が大きくなっていくと、1本1本スイスイ枝が上に伸びる。そういうのを秋には根本から切る。冬前に切った柳を田んぼに差し込む。そうすると春に枝が芽吹きするんです。それを引っこ抜いてきて、皮むきしていました。
郷道:皮むきをする前に、川へ柳を漬けておく。皮をむいて、洗って、それから、皮をむいたやつを川で洗う。皮と木の間にぬめり(灰汁)があるから、それを取るために。それから干して乾燥させて、うちの場合は自分の家でそれを消費したけど、そこからよその家へ売っていた人もいました。2階に柳の束がいっぱいあったから、うちも少しはよそから買っていたんかもしれないです。
郷道:行李をつくる時は、乾燥させた柳を水に浸して丸のまま使います。私もやったけど、かごに編む柳は道具を使って4つ割にして、中の芯を抜いてひごにする。そういう素材を使って、私より少し年上の、中学を卒業したばかりのような人や、近所の人が冬になると編みにきていました。手伝いにきている人のなかでは、昭和15(1940)年生まれの私の叔父が一番若かったと思います。私の父と母も編んだり、若い人に指導したりしていました。
ーー学校で「皮むき休み」もあったんですよね。
郷道:そう。学校が半日で終わって、休みになるんです。大人用の柳は1束30〜40円の太い束でしたが、子ども用に1束10円ぐらいのものもつくってくれていて、そういうのを小学生・中学生がむいたりしていました。
杞柳からエノキタケ栽培に
郷道:私が中学2、3年の頃(昭和30年代後半)に、ビニール製品に追われて杞柳細工が左前になってしまいました(上手くいかなくなってしまいました)。そのあと新しい仕事ということで始まったのが、えのき栽培です。杞柳細工が勢いよく続いていればよかったけど、全然商売にならなくなって……。
中学の1年頃から高校に入るぐらいまでは、うちは貧乏だったみたいです。この家は、私が小学校6年の時に建てましたが、そのときは杞柳の景気がよかったらしく、それで建てたみたいです。そうしたら、家をつくっている途中で杞柳がだめになっていってしまって、完全に建てられなくて、何年か後にようやく建ったんです。
うちは田んぼもそれほどないし、それまで杞柳で食べていたんだけど、「(これから)どうするだい」っていう話を両親でやって。そのときに農協の技術員が、「じゃあ、きのこを、エノキタケをやってみたらどうですか」って。それで思い切ってエノキタケをやったみたいです。
でも、冬だけじゃとても生計が成り立たないということで、さらに「冷房設備を入れて一年中栽培できるようにしたらどうですか」と技術員から話があって、高校1年か2年の時(昭和40年頃)には冷房設備を入れて栽培するようになりました。それですごく景気がよくなったんです。
最後、柳を廃業する時に、根っこを抜きにいったこともあります。あれも大変でした。
次回は杞柳栽培と水害の歴史についてご紹介します。
*写真提供:郷道哲章さん
文・写真:水橋絵美