結文舎/シェアスペースまちのアトリエ_長野県中野市

結文舎は長野県中野市の作家やクリエイターがゆるくつながるグループです。コワーキング&シェアスペース「まちのアトリエ」を運営しています。ワークショップやメディア記事を企画し、さまざまな人のつながりを生み出すことで、この地域の未来について思いめぐらす場をつくります。

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最近の記事

柳をめぐるタイムトラベル#6〈杞柳の歴史は水害の歴史 その3 ー水害常襲地の今昔ー〉

柳をめぐるタイムトラベル#5〈杞柳の歴史は水害の歴史 その2 ー杞柳からエノキタケへー〉に続いて、杞柳産業と水害についてのお話を紹介します。 延徳田んぼはなぜ水害常襲地に? ーー柳を栽培していた畑は、その後どうなったんですか? 郷道:柳をつくっていた畑は水田になりました。それが、中野市と小布施町の間に広がる延徳田んぼです。柳を辞めて水田にしたあとに水害に遭ったこともありました。水害のあと稲刈りにいったら、一反歩ぐらいあった田んぼで砕け米が2俵ぐらいしかとれなかったり。一

    • 柳をめぐるタイムトラベル#5〈杞柳の歴史は水害の歴史 その2 ー杞柳からエノキタケへー〉

      〈杞柳の歴史は水害の歴史 その1 ー郷道政之丞さんが遺したものー〉に続いて、郷道さんの子どもの頃、昭和30〜40年代のお話を紹介します。郷道さんが子どもの頃は柳の景気がとてもよく、家も新しく建て替えることに。ところが……。 「栽培も編む方も全部やっていたよ」 ーー郷道家でも杞柳(柳)を栽培していたんですか。 郷道:うちは栽培も編む方も全部やっていました。柳をとってきて、柳の皮をむいて、干して、それをひごにして。若いしょ(若い人)が来て柳行李を編んだり、冬は女性が来て、か

      • 柳をめぐるタイムトラベル#4〈杞柳の歴史は水害の歴史 その1 ー中野市新保の郷道政之丞さんが遺したものー〉

        柳をめぐるタイムトラベルのシリーズ#4〜6は、中野市新保の郷道哲章さんにお話をお聞きしました。新保地区は杞柳産業誕生の地とも言える場所。郷道さんのお話は、3代前の曾祖父・政之丞(まさのじょう)さんが遺してくださった貴重な資料の紹介から始まります。 郷道:曾祖父の郷道政之丞という人が、豊岡(兵庫県)から中野市に杞柳を導入する時に関わったらしいです。経緯はよくわからないんですが、関わった内のひとりだったようで。ちょっとメモ魔みたいなところがある人で、こういうのを残しています。

        • 柳をめぐるタイムトラベル#3ー「編む」愉しみ。記憶と指先を通してー

          2024年2月8日、中野市人権センターの事業推進にて開催された『籐のフルーツかごづくり講座』に参加しました。 講師は畔上正雄先生(NPO法人よませ自然学校)をはじめとする4名。 普段は、志賀高原に研修・修学旅行などで訪れた学生さんなどに、かご編みや木工クラフトなどのワークショップ、自然体験のガイドなどをしているそうです。 回数を重ねた人権センターでの講座は、参加者さんもリピーターの方が多く、和やかな雰囲気に包まれ、早くかごを編みたい気持ちで溢れていました。 小さな果実に

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        • 柳をめぐるタイムトラベル
          7本

        記事

          柳のまちのタイムトラベル#2〜りんご、杞柳、エノキタケ〜

          中野市で手編みの靴下や手紡ぎ糸などを制作している吉家公代さん。次女の杏子さんのご紹介で、公代さんが子どもの頃に杞柳(コリヤナギとも呼ばれる。以下、柳)の皮むきをやっていたとお聞きし、お話を伺いました。 公代さんのご実家は、2013年頃まで中野市三ツ和(大熊地区)でエノキタケやアスパラガスの栽培を行っていましたが、その前は柳やりんごを栽培していたそうです。大熊地区は中野市南部に位置し、水害常襲地であった延徳たんぼの山沿いに位置します。延徳田んぼは昭和40年代(1965〜74年

          柳のまちのタイムトラベル#2〜りんご、杞柳、エノキタケ〜

          柳をめぐるタイムトラベル#1ー徳竹行李店の思い出ー

          はじめに 本企画「柳をめぐるタイムトラベル」は、中野市の杞柳産業(註1)に関わっていた方や、そのご家族の方へのインタビューを記録し、杞柳(コリヤナギ)栽培の情報やかご編みの歴史・技を多くの人と共有するためのプロジェクトです。 今回、お邪魔したのは中野市西条にある徳竹デザイン事務所。デザイナーの徳竹孝之さんのご両親は長年、柳行李や椅子(スツール)を製作し、問屋に卸す仕事に携わっていました。 徳竹さんのお母さま、ゆきいさんは大正14(1925)年生まれ。お父さまの之さんは大

          柳をめぐるタイムトラベル#1ー徳竹行李店の思い出ー

          柳をめぐるタイムトラベルー長野県中野市、杞柳産業のその後ー

          序 中野市の杞柳産業とは 江戸期から20世紀半ばまで、日本人の暮らしに寄り添い、広く使われていた日用品があった。土から育てた柳を加工し、素朴な道具と人の手で編み上げたかごである(1)。 私が暮らす長野県中野市には、40年ほど前まで杞柳(以下柳)を栽培・加工する人や、柳を用いて行李やかごなどを制作する人がいた。柳の栽培は明治期に導入され、信濃川に隣接する延徳地区の水害地対策として、加工は農家の冬仕事として普及し、一産業として地域経済を潤わせた。しかし、昭和40年代(1965

          柳をめぐるタイムトラベルー長野県中野市、杞柳産業のその後ー