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柳をめぐるタイムトラベル#4〈杞柳の歴史は水害の歴史 その1 ー中野市新保の郷道政之丞さんが遺したものー〉

柳をめぐるタイムトラベルのシリーズ#4〜6は、中野市新保の郷道哲章さんにお話をお聞きしました。新保地区は杞柳産業誕生の地とも言える場所。郷道さんのお話は、3代前の曾祖父・政之丞(まさのじょう)さんが遺してくださった貴重な資料の紹介から始まります。

学習塾「寺子屋てっしょう」や農業を営む郷道哲章さん。元高校の校長先生で、郷土史の執筆をするほか、中野市文化財保護審議会の委員長も務める。昭和23(1948)年生まれ

郷道:曾祖父の郷道政之丞という人が、豊岡(兵庫県)から中野市に杞柳を導入する時に関わったらしいです。経緯はよくわからないんですが、関わった内のひとりだったようで。ちょっとメモ魔みたいなところがある人で、こういうのを残しています。

昭和11年、『杞柳について』
『杞柳栽培手引き』

郷道:『杞柳栽培手引き』には、「本帳は単に一般の栽培……、羅列したるものなれば畑によりてよく考え……、明治45年に始めてより8年……」と書いてある。

ーーひいおじいさんの代から柳をやっていたんですね!

郷道:そうそう。政之丞は明治9(1876)年11月22日生まれ。

ーーこれらの冊子は誰かに向けて書いたものなんでしょうか。

郷道:わからない。ただ書くのが好きだったんじゃないかな、と思います。祖父も書くのが好きな人だったから。

『杞柳栽培手引き』より。消毒について書かれたページ

郷道:消毒薬のボルドー、それから、ネオトン、ヒサシン、ニコチン、除虫粉って書いてある。「混用不可」と書いてあるのは、混ぜた時に毒のガスが発生したり、そういうこともあるから。今でもそうだけど、殺虫剤と殺菌剤とか、いろんな薬を混ぜて消毒として使うから、そういうのを書いてあるんだと思います。

「ボールド」と書いてあるのは、ボルドーのこと。硫黄銅剤といって、春先にいろいろな樹木に打つと病気にかかりにくくなるという予防注射みたいなもの。今でもブドウとかリンゴに使っていますよ。

ーー杞柳にもいろんな薬を使っていたんですね。

郷道:意外と柳も消毒が必要なんでしょうね。杞柳をパチンって割れば、真ん中は年輪みたいになっているんじゃなくて、コルク状の芯みたいなのが入っている。それから、葉っぱには虫が付く。

新保豊田神社の南側にひっそりと佇む杉森神社の前で *

郷道:新保の神社の左側に、杉森(すぎのもり)神社が建っているんです。柳で一時景気がよかったから、あんな立派な神社を建てたんだと思います。

現在の杉の森神社。鳥居には「柳の宮」という文字が見える

ーー杉森神社で昔、柳関連のお祭りをやっていたと本で読んだのですが、記憶にありますか。

郷道:あの当時は、いろいろなお祭りがあったからやっていたかもしれない。何かあればお祭りしていたから。

屋号を染め抜いた法被を着て、手に柳を持っている人たち。昭和13年3月のメモあり。「手に持っているのは柳だと思う。畑に柳を植えにいくのかな」(郷道さん)*
「昭和5年5月 柳のカワムキ」と書かれた写真。たくさんの人が外に並んで皮むきをしている。現在の郷道さんの自宅の場所 *
郷道さんの祖父・貞一郎さんと祖母・しずさんの結婚式(前列左側のふたり)。曾々祖父の長太郎さん夫妻(前列右側のふたり)、曾祖父・政之丞さん夫妻(後列右端と左端)も写っている *
郷道さんのお父さん、和由さんの兵隊時代。第二次世界大戦の頃の写真。どちらの写真も左端に写っている。「親父は乙種合格だったから、茨城の高射砲隊所属で死なずにすんだ」(郷道さん)*
政之丞さんが書いた和綴じの2冊のほか、青い万年筆で書いた作者不明の6ページの冊子(右、以下青冊子)も残っている
青冊子には杞柳栽培の歴史から衰退までがイラスト付きで書かれている。昭和40年代に書かれたものだろうか

曾々祖父・長太郎さんは弘化2(1845)年生まれ、曾祖父・政之丞さんは明治9(1876)年1月生まれ、祖父・貞一郎さんは明治33(1900)年生まれ、父・和由さんは大正13(1924)年生まれ。政之丞さんから和由さんまで3代に渡って杞柳栽培に携わっていた郷道家。昭和23(1948)年生まれの郷道さんと杞柳産業との関わりのお話は、次の回でご紹介します。

*写真提供:郷道哲章さん

文・写真:水橋絵美


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