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柳をめぐるタイムトラベル#6〈杞柳の歴史は水害の歴史 その3 ー水害常襲地の今昔ー〉

柳をめぐるタイムトラベル#5〈杞柳の歴史は水害の歴史 その2 ー杞柳からエノキタケへー〉に続いて、杞柳産業と水害についてのお話を紹介します。

延徳田んぼはなぜ水害常襲地に?

延徳田んぼ

ーー柳を栽培していた畑は、その後どうなったんですか?

郷道:柳をつくっていた畑は水田になりました。それが、中野市と小布施町の間に広がる延徳田んぼです。柳を辞めて水田にしたあとに水害に遭ったこともありました。水害のあと稲刈りにいったら、一反歩ぐらいあった田んぼで砕け米が2俵ぐらいしかとれなかったり。一反歩でコメ10俵と言われることを考えると、ほとんど実らなかったということですね。

でも、江戸時代の終わりまでは、延徳田んぼの水害は少なかったんです。なぜ水害常襲地になったかというと、弘化4(1847)年の善光寺地震がきっかけです。

善光寺地震では逆断層が起こったと言われていて、そのときは飯山側の地面が上がって、延徳田んぼ側が下がったと。それで延徳田んぼは水害の常襲地になるわけです(註)。

明治時代には丸山要左衛門という人が、延徳田んぼの水害を防ぐためには千曲川をまっすぐにすればいいんだ、と政府に嘆願書を出して、治水工事をやりました。その事業を「上今井の新川掘り」と言います。でも、結局は治らないんです。そもそも土地が低くなってしまっていて、低いところには水が溜まりやすいので。

上今井の新川掘り(出典:中野市社会科副読本改訂編集委員会編集『わたしたちの郷土』中野市教育委員会)

郷道:いつも水害で水をかぶっているからコメがとれなくて、新保の人はみんな苦労していました。そこで、どうしようかと明治時代に導入したのが杞柳。兵庫県の豊岡市から指導者を呼んだりして、栽培技術を学んだということですね。

これは余談だけど、江戸時代の古文書なんかを見ると、水害で稲がダメになったからヒエを植えたっていう記述があります。おもしろいことに、延徳田んぼでは、いまだにヒエが多いんです。今もその種が残っているみたいです。他にも、長野市篠ノ井のあたりは水田がなくて陸稲(りくとう/おかぼ)で大唐米というコメをつくっていたらしいんだけど、それがいまだに生えてくるらしいです。その地域によって、おもしろいですね。

水害後の杞柳は……

ーー水害は杞柳を栽培していた時期にも起きていたっていうことですよね。

郷道:杞柳は水害にも強いということで栽培が推奨されました。たとえ水を被っても、すぐ水が引けば大丈夫だと。だけど、私が小学校4年ぐらいの頃、昭和34(1959)年、7号台風というのがここを通ったんです。当時は千曲川の堤防が少しずつ強化されていた時期で、篠井川と千曲川が合流するところに篠井川排水機場というのができていました。排水機場では、増水すると千曲川の水の圧力で水門が自動的に閉まるようになっています。今は水門がシャットアウトしたあとに、内水氾濫が起きないよう、排水ポンプが動き出して内水氾濫を防ぐ仕組みになっているけど、当時の排水機場には排水ポンプがなかったんです。

篠井川排水機場周辺。「広報なかの 2023年9月号」で詳しく紹介されている

郷道:排水ポンプがないとどうなるかというと、篠井川の水が増えて内水氾濫が起こる。小沼地区にある綿半スーパーセンター中野店のあたりは、当時2m近く水が入ってしまっているんじゃないかと思います。そのときは内水を出すのに1週間以上かかって、ひどい状態でした。杞柳も1週間以上、頭だけが出るような状態になっていた。そうしたら、息ができないから、一番先端で枝の先がパッて枝分かれしてしまった。それで、翌年の皮むきは非常に苦労したのを覚えています。

「杞柳栽培の歴史は延徳田んぼの水害の歴史」

郷道:延徳田んぼの杞柳は伝統工芸かというと、これは伝統工芸でもなんでもないと思います。杞柳栽培の歴史は延徳田んぼの水害の歴史。水害との戦いで止むに止まれず、杞柳栽培に頼らざるを得なかった、と。それが、一時期すごく景気がよかった、というわけです。

中野市経済部商工観光課発行のパンフレット「中野市の特産 杞柳製品」

郷道:子どもの頃の水害のことは、よく覚えているけれど、ほとんど毎年水害に見舞われていたんじゃないかな。千曲川の堤防のおかげで、延徳田んぼ側は内水氾濫で済んでいたから、村の方は水害に遭わなかったんだけど、それでも千曲川の堤防が切れればヤバいっていうのは、子どもの頃から身に染みていました。

ところが、2019年の台風の時は、この地区でも水害・土砂災害のおそれがあると避難勧告が出されましたが、避難しない人が多かったです。

ーー郷道さんは南宮中学校に避難されたんですよね。

郷道:はい。私が新保区長をやっていた頃、新保は何かあったら延徳小学校へ避難することになっていました。でも、延徳小学校に行く前に地域一帯が浸水してしまって、避難所に行くこと自体が危険な可能性がある。それで南宮中学校が避難所になりました。その頃は中野市の職員もそういうことを知らなかったようだから、杞柳栽培のことをもし書くなら、絶対、水害とは切り離せられないし、今でも杞柳栽培は、そういう話と一緒に伝えていかなきゃいけないものだなと思います。

◼️2019年、台風19号の被害状況を伝える中野市役所広報のFacebook


郷道:2019年の水害(令和元年東日本台風)もある意味、国の政策の失敗なんじゃないかと思っています。最近は大河川の堤防が決壊して大水害を起こすことが多いけど、以前は「蛇抜け(土石流)」が多かった。山で発生する鉄砲水の水害をなくすための対策として何をしたかというと、山間部の川を直線にして、川に段差をつけて水を落とす、というかたちで川が改修されていった。そうすると、カーブしている川と違って、まっすぐ水が落ちる。段差にしたことで水のスピードが多少は抑えられるけど、流れる水量は変わらない。そういうふうに山の水を一気に流して、強い堤防をつくって広いところで水を溜めようと、そういう治水対策が行われてきました。

佐久とか上田でもそういうかたちで改修したので、大雨が降ると千曲川へバッーと水が流れる。その水が広いところに一気に溜まる。一番広いところがどこかといったら、このあたりだと篠井川の河口あたり。それに加えて、気候変動で今まで以上に一気に降る雨の量が多くなってしまいました。

昭和34(1959)年の台風7号の時にも、堤防が決壊しそうだといって避難したことがあったんだけど、そのときの台風が、群馬とか軽井沢のあたりを通ったんです。群馬寄りの進路の時は、佐久のあたりですごい量の雨が降る。その影響で千曲川の水が上昇し始めたのは、翌日だったっていう話です。

ところが今は一気に水を流すようになっちゃったから、朝方に千曲川上流で降った雨が、その日のうちに下流の方で一気に増えて大騒ぎになる。一気に増えるから排水しても危なくて、翌日避難命令が出たというわけです。そういうことっていうのは、今は知らない人の方が多いから、「ヤバい」って思いました。

家に伝わる冊子や自身が撮った写真など、豊富な資料を見せてくださった郷道さん

郷道:うまく言えないけど、杞柳栽培も延徳田んぼの水害の歴史と重なっている。そこはうんと大事なことだと思います。

もうひとつは、信州大学の黒崎さんという方が言っていたんだけど、新保という村は、異常だと。いい意味にも悪い意味にも、とにかく「俺が、俺が」っていう人が多くて、現状をなんとかするために新しいことを取り入れようという意識が強い。つまり、昔ながらの村のような団結はあまり関係なくて、都市型だっていうこと。諏訪(長野県南部)も同じような気質だと言われています。

それはたぶん、新保が水害で何度も何度も痛めつけられたから。ずっと痛め続けられなければ、そういう発想は生まれないと思います。安全な場所だったら保守的になっていたんじゃないかな。

これも余談ですが、江戸時代には須坂藩があって、天領の中野があって、間に小布施があった。須坂と中野は力が強い。そこで月に9回開く「九斎市」をやっていた。その合間を縫って小布施では「六斎市」をやっていた。私が思うだけの話だけど、小布施っていうのは、やっぱりたくましい。小布施は須坂と中野の狭間だから、間を縫って商売をしなくちゃいけない。そうすると今の小布施みたいな、たくましい、まちとしてどうするのかっていう力みたいなのものが生まれてくると思うんです。

ーー新保地区で、防災訓練をやったり、コミュニティーとして対策をしているところはありますか。

郷道:それは区の役員が担当してくれています。老人ホーム高社寮(2021年閉鎖)があった時は一緒に防災訓練をやって、火事などの災害があった時に支援できるようにしていました。

2019年の水害の時に、うちの家族は南宮中学校に避難しました。だけど、長男は消防団をやっていたから避難しなかったんです。消防団員は一人暮らしのお年寄りを一軒一軒回って避難を促していたんです。消防団にはご苦労してもらっているので区費から補助金が出ています。ところが、コミュニティーが広くなると、そういうのを知らない人がいて、「消防にただお金を渡してているが、飲み代にしているだけじゃないか。そんな無駄は削った方がいい」とか、そういう批判をする人が多くなってきています。消防団が防災活動もしていることに気づいていない人もいるんですね。

郷道:それから、新保や桜沢、小布施の人も含めて、延徳田んぼの周りで団体をつくっています。篠井川改修促進期成同盟会といって、排水機場を整備してもらう活動を、市会議員がトップに立って働きかけたりするんです。

篠井川の中にヨシ(アシ)が生えるので、川の水の流れが悪くならないように、ヨシをビーバーで刈ったり、そういう労働奉仕をみんなでやっていたこともありました。篠井川は一級河川なので、今は県の建設事務所などが、何年かに一度重機を使って一生懸命管理してくれています。

現在の篠井川

ーー新保地区には新しい家も増えてきていますね。

郷道:明治時代から杞柳栽培をしていた頃までは、ずっと150戸ぐらいだったのが、今、450〜500戸になっています。隣のことはあんまり気にしないっていう、そういう気質がもともとあるので、新しく家を建てても、新しく来た人が差別されるとか、そういうことはほとんどありません。だから増える。西条と岩船と東吉田も増えたけど、同じような理由からだと思います。

ーー新しく家を建てる時に土台を少し高くするとか、そういう工夫を新保地区で推奨したりなどはしていますか。

郷道:最近はないけど、小沼地区には、水害に備えて土台を少し高くしている土蔵が残っています。あと、子どもの頃には、小沼で2階に船を取り付けている家があったのを覚えています。今はもう、そういう家は残っていないと思います。つまり堤防が強固になったし、水害がほとんど起こらないという前提になったから。ところが本当はそうじゃないんだと。

水に浸かった部分とそうでない部分で壁の色が違う(出典:中野市社会科副読本改訂編集委員会編集『わたしたちの郷土 中野市』中野市教育委員会)

郷道:昭和58(1983)年には中野市の大俣にも水が乗りました。このときも、小布施町の堤防の下からじゅくじゅく水が湧き出てきていて、今にも決壊しそうだったらしいです。ところが、そのときに、飯山の常盤(「道の駅 花の駅千曲川」周辺)の堤防が決壊したんです。とても失礼だけど、どこかが切れるとどこかは助かる。

その前の年(1982年)には、飯山市木島地区一体が氾濫した水害がありました。樽川が決壊して、飯山市の旧木島駅のあたりが水害に逢ったんです。私が知っている限り、それが2回目。3回目は長野市・信濃町を流れる鳥居川が決壊した時、長野市浅野のあたりが水に浸かったことがあります。そのとき何があったかというと、堤防がヤバいということで少し水を流そうと思って、堤防を敢えて切ったらしいんです。そうしたら決壊して、あそこが一面水害に遭ってしまった。それで新保は助かっているんです。

2019年の台風19号では、長沼(長野市)が決壊したから助かったと思っています。あの時も、篠井川の排水機場の横で大きな穴が空いていたっていう話があります。

ーー堤防に穴が?

郷道:そう、堤防のどこかに。排水機場を建設していた当時、40年くらい前に工事現場を見にいったことがあるんですが、千曲川の縁は掘っても掘っても砂利だらけらしい。堤防は砂利の上につくってあるんだから、急激に増水すれば砂利のところに水が浸み出る。排水機場のところは、しっかりした建物をつくるから、砂利なんかもある程度取り除いて、しっかり地盤をつくって排水機場をつくるわけだけど、その周辺がね。

1983年の台風10号。堤防の上までドラム缶が上がっているのがわかる *
同じく台風10号で増水した千曲川。赤い橋は立ヶ花橋。今より低いところに設置されていた *
台風が過ぎたあとの篠井川排水機場周辺(1983年秋)*
現在の立ヶ花橋と千曲川(3月下旬)

ーー『中野市くらしと防災ガイドブック』を見れば、災害発生の可能性が分かるデータが出ていますね。

郷道:そこにも出ているし、例えば、国土交通省の千曲川のページだと、堤防が決壊したら、どこまで、どのくらい水が溜まるかというシミュレーションを見ることもできます。

明治20年代(1887〜1896年)頃には、うちなんかでも水が鴨居まで来たと聞かされています。今の方が河床が上がっているから、千曲川が決壊すれば屋根まで埋まるんじゃないかな。

小布施ハイウェイオアシスから篠井川排水機場にかけて、高速道路ができたおかげで二重堤防になっているのが有り難い。でも、いつ何時水害に見舞われるかはわからないと思っています。

ーー1983年、台風10号の時も、ボランティアで水害のあとの片付けを手伝いあったりしたんですか。

郷道:当時はボランティアなんてなかったですね。ギリギリで、ここまで来たっていうことだと思います。この地域に暮らすなら、水害の常習地帯であるというのをいつも考えておきたいですね。

校長室が生徒のたまり場になるほど生徒に親しまれていた元校長先生。「ヤバいやつだったから県立歴史館や県庁にも飛ばされ(配属され)たりしたんだよ」とおどけて言う

2019年の台風19号の被害状況は中野市のWebサイトにも公開されています。それを見ると、郷道さんが避難した南宮中学校には115世帯、309人が避難していたとのこと。市内15カ所に開設されたなかで、最も避難者数が多い避難所でした。昔に比べると、被災する可能性はぐんと低くなっているかもしれませんが、地域の特性を知り、自分ができることをあらかじめ知っておくことで、助かる命、助けられる命があるはずです。

中野市立ヶ花の道路脇に個人の方が建てた石碑とお地蔵さまがあった。石碑の裏に示された「大洪水時の水位」は地面から150〜160cmほど。大人でも肩や頭まで水に浸かってしまうだろう

延徳田んぼの水害の話は、知識としては知っていましたが、郷道さんのお話をお聞きして初めて、今の生活に水害の歴史がつながっているということを実感として持つことができました。今後は、現在私たちが直面している気候危機と併せて水害の歴史も学びながら、杞柳産業の歴史=身近な自然素材と自分の手でものを生み出す楽しみを伝えていけたらいいなと思いました。

あとがき
郷道さんは水害や杞柳の話の合間に、教員時代の話もたくさんしてくれました。なぜ教員になったのかといえば、水害でお米がほとんど採れなかった現実を知った子どもの頃の体験も、少なからず影響しているのかもしれません。

「延徳田んぼっていうのは水害で泥だらけになって、コメがあまり採れないから、イナゴが太っていないっていうので、『延徳田んぼの痩せいなご』って言った。……百姓って悲しい、水害で何度も大変な目に遭うかもしれないから。百姓にならなかったもうひとつの理由は、自分で野良仕事に出なくても人に迷惑はかけないから。教員は授業にいかなきゃ生徒に迷惑がかかる(笑)。だから教員になったというのがあるよね、自分は意志が弱いからさ」(郷道さん)

郷道さんが教員になった理由は、謙遜する気持ちもあっての発言なのでは、と思います。なぜなら、退職後は先祖代々の畑で汗を流したり、学習塾を起業したりと、「百姓」の道を歩んでいらっしゃるから。郷道さんも新保地区に育まれてきたチャレンジ精神を受け継いでいるようです。
そして、人の内面や組織全体に配慮が行き届く人柄だからこそ、さまざまなキャリアを歴任されてきたのだと思います。
今回の取材をとおして、人の命や生活と過去の歴史がつながっていることを忘れないように、という大事な視点を学ばせていただきました。

郷土誌『高井(第214号、令和3(2021)年2月)』に発表した郷道さんの記事「江戸時代後期の新保村水害記録とその後の水害」。水害の記録が詳しく書かれている

(註)「善光寺地震の震源断層といわれる長野西縁断層が千曲川を横切る立ヶ花は、断層北側(千曲川下流側)が隆起し高丘丘陵を形成し立ヶ花狭窄部となっている。千曲川の洪水はこの狭窄部で流れきれずに上流側で湛水、支川を逆流する。断層活動で沈下した一帯で千曲川が氾濫形成した沖積地が延徳沖である。」千曲川河川事務所Webサイト「立ヶ花狭窄部と延徳沖の湛水(中野市)より

*写真提供:郷道哲章さん

文・写真:水橋絵美


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