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「心の声」

ひとの夢や願望は、その時々で変わりゆくもの。
だけど、ずっと持ち続ける願望(夢)もある。

その夢をずっと持ち続けることに、どんな意味があるのだろうか? 今まで考えもしなかったことだけど、思いがけない気づきがあったので記録しておこうと思う。 

  ………………………………………………

私が高校の頃からふわっと淡いながら待ち続けている夢は、
「人の心にスーッと入って、長ーく愛される"ものがたり"もしくは"絵本"を書く!」というもの。

星の王子さまやムーミンのような、簡単なことばで真理を含んだファンタジーを描けたら嬉しいなあ❣️と思っていた。

だが、巷によくある類の「夢を叶える」イメージ法でその夢を膨らませていくと、気持ちのズレが生じてくるのを感じていた。どこかに無理がある。ワクワクが薄れていく。反対に緊張を伴う感じ。

ーこれはどうしたことだろう?

自信がないからか?
自分に嘘をついているのか?
そもそもダミーの夢なのか?
そのへんがどうも分からなかった。。

上手下手はともかく、書くことも描くことも好きで表現したいのは確かなんだけど…。ズレが生じる原因はあやふやなまま、その夢はずっと持ち越しされていた。

   * * * * *

願望や夢は、他にもある。
自分や家族が元気で幸せに暮らしていること、平和で安心な世界で生きていたい、世界を旅してまわりたいなど…あげていったら幾らでも出てくるが、何が何でも叶えたい願望となると絞られてくる。

絶対に叶えたい願望のひとつは、「自分を生きる」ことだった。

1年ちょっと前にそれに気づき、1年かけてそこに取り組んだ。
で、その望みがまずまず叶ってきたから、今年の目標は長年の願望である「絵本」に着手し、お金にしよう!と思っていた。お金を稼げてこそ、人から認められたホンモノの証…と思い込んでいたから。


そんな矢先、然学(自然の法則を生かし、自分の使命を生きていく学び)の新春ライブを聞いた。その内容は…

然学を学んできたOさんの、無知の無知〜無知の知〜知の無能〜知の有能〜無の有能へと変化していった体験談と解説だった。内側が変化すれば、現実もおのずと変わる。

Oさんは、若いころから次から次へと波乗りのように面白そうなビジネスに手を出し、何をやってもそこそこ上手くいくのだが、長くは続かない。波が引いてくると〜また次のビジネスと乗り換えていた。そして昨年、今のビジネス(仲間を社員として雇っている)でお金が滞り、ビジネスたたむ所まで追い詰められた。そのギリギリの瀬戸際で、思いもかけず社員や家族の温かい反応を受け取ったことから、自分の本心にやっと気づいたのだ。

Oさん曰く、自分は「ビジネスで成功したい!」と長年思ってきた。それは、仲間とつながっているためには成功した自分でないといけない!思っていたからだ。成功している自分だから、仲間がついてきてくれるのだと。。だけど、本当は…
「何も持ってない自分でもつながってくれる、ほんものの人間関係」が欲しかったのだ。だが、それは叶わない夢!と信じ込んでいたから、ダミーの夢「ビジネスの成功」を追いかけることで、自分の心をごまかしていたのだった。


それを聞いたとき、私の中でガラガラと崩れ去るものがあった。ハッキリ分かったのだ。私の「絵本描いて稼ぎたい」も、ダミーの夢だったと…

「絵本を描きたい」と「人から認められたい」「お金を稼ぎたい」は、別の欲求だ。だのに、無闇にくっつけて混線していた。
本当に好きなことをしたなら、それはお金になるはず!そうならないのは「自分に問題がある」というヘンな方程式で、自分を緊張させていた。

心の端っこでは、うっすら気づいていた。これをビジネスにしようとした時点で、創造性が作業に変わっていくのを。それなのに、その感覚に蓋した私が…いる。


ーじゃあ、本当はいったい何がしたかったの⁉️

自分に聞いて浮かび上がってきたのは、
「表現したい!」だった。

ー表現したい?何を?

日々の営みからの気づき、私の中から湧き出てきたもの。創造性、想い、感じたこと…

ーそうかそうか、わかったよ。表現していこうね。


それで、またnoteを再開したのだった。
今は、どうなりたい!ということよりも、ただ「表現したい!」気持ちを優先して書いている。

ところが、今日、「表現したい!」の先にあるもの…に気づいてしまった。それは、

「ワタシのほんとうの気持ち、心の声を、ちゃんと表現して!」

というリトルミーの声だった。


話は、ちょっと横にそれる。。
昨年夏に上映されたアニメ映画「モノノ怪・唐傘」、ご存じだろうか?
大奥にご奉公する御殿女中たちは、まず最初に、自分の1番大切なものを井戸に捨てて決意しなければならない。
全体の善のために、個人の善が切り捨てられる。それは、「決して失ってはいけないもの」だったりする。それを捨てたがために、心が崩壊してしまう。そこで事件が起きる…というストーリーだった。

映画を見終わったあと、
「わたしは何を、捨てただろうか?」
と自分に問うてみた。が、その時は分からなかった。


それが、今日わかった。
私が、子どもの頃捨てたもの。
それは、「ほんとうの気持ち / 心の声」だった。

幼子の勘違いから、「私はこの世界から必要とされていない、求められていない」と思い込んだ私は、生き残り作戦として外側にアンテナを張り巡らせ「周りの人たちが求める私」を予想し、そこに自分をはめ込んで生きてきた。自分の気持ちより、周りから受け入れられるワタシになることが第一優先。

子どもだから、考えてやっていたわけではない。無意識で必死にやっていた。それにちょっと気づいたのは、小学生高学年頃かな。
「あれ?どうしていつも、心に思っていることと違うことを、私は口にするんだろう?」
と不思議に思った。が、すぐに忘れてしまった。

その後は、自分の本当の気持ちを無視して体裁のよいことを言うのが当たり前になりすぎて、自分が偽っていることにも気づかなくなっていった。


こんな私で、よくまあここまで無事に生きてこられたと思う。自律神経が狂い、体調不良にはなったけど、自分が自分にしてきた仕打ちを思えば、もっと酷い事態になっていてもおかしくはない。
からだの自然治癒力、ご先祖さまのご加護、全てに感謝しかない。

たくさんの遠回りをしたが、やっとやっと、自分に戻る道を歩めるようになった。昨年は、「自分を生きる」が体感できた。


そして今度は、幼き日生きるために捨てた「ワタシのココロ(ほんとうの気持ち / 心の声)」を拾いあげようとしている。それは、「絵本を書きたい」「表現したい」の裏側に隠れていた本当の望みだ。ワタシのココロは、表現されたがっている。周囲から認められるためではなく、自分を表現してほしいと願っている。

気づいてよかった。気づけて、よかった。

何十年も前に私が捨てた「心の声」よ、ありがとう。
諦めずにノックし続けてくれて。。


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