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いつかのサイゴン

もう閉鎖してしまったブログがある。
20年ほど前に、自分の行動記録として残したものだった。
どんなきっかけで削除してしまったかはよく覚えていない。
JUGEMブログ、というサービスを使ったと思う。
その時に主に書いていたのが、ベトナム訪問の記事だった。

2004年12月、私はベトナムサイゴンへの飛行機の中にいた。
中村悟郎氏の本をきっかけにベトナム戦争と枯葉剤について素人ながらに調べて、サイゴンにあった「平和村」という施設を訪ねる旅だった。

きっかけはニューヨーク地裁への訴えの棄却のニュースだった。

何かのつてがあったわけでもなく、ベトナム語なんて話せない。
ただ、現地ガイドが観光のついでに枯葉剤の影響で障害の出てしまった子供たちの暮らしている施設を訪問する、という現地ツアーに紛れ込んだ。
ツアー参加者は私と、中年の女性3人くらいだったと思う。
通り道の雑貨屋に寄り、スナック菓子のようなものを袋に詰め込んで目的地に向かった。
「平和村」の子供たちに配るものなのだ、と気が付いたのは、施設に入ってからだった。
30分ほど見学して、市街地のランドマークを案内するので、平和村を辞去することになった。

見学はこれまで、と打ち切られたのだが、そのあとどうしたのかは
当時のブログには書いていなかった気がする。
熱を帯びた自分の感覚が、その間の出来事を忘れてしまっていたのだと、今になって思う。

そんなに簡単に引き下がるわけにはいかなかったのだ。

思い返せば、その時の自分の行動が、後々のベトナム再訪、カンボジア訪問のきっかけになったのだと思う。

現地ガイドに、ここからはツアーをキャンセルする、と伝えて、自分は平和村に残った。
そして、若く、英語の話せるスタッフに聞いてみた。
「もう少し中にいさせてくれないか?」と。
ドクターは英語を話さなかったので、身振り手振りと、覚えたてのベトナム語で懇願した。
根負けしたドクターは、しぶしぶ受け入れてくれた。

「自分は写真を撮りに来た」
と説明し、自分の目で見た戦争を記録し、伝える。
報道写真展への出展も視野に入れ、「いい写真」を撮ろうとしていた。

先天的に身体障碍が生じてしまった子供たち。
新生児から、青年といえる年齢の子まで、年齢層は広かった。

手足がない、全身の皮膚の障害がある、など、症状も程度も様々。
平和村で暮らし、ここから学校に通う子供もいる。
平和村の中で読み書きを教わり、外に出ない子供もいる。
一日過ごしたくらいで、全員の顔を覚えるのは無理だ。

午後になって、歩行訓練を始める子供もいる。
さっきまで笑顔で遊んでいた子供の表情がゆがむ。
装具をつけての歩行練習は苦痛なのだ。
それもまた、彼らの日常だ。

ツアーだけで見ていたら、この子のこんな表情は知らなかっただろう。

その後、10回以上平和村を訪れ、写真を撮り続けた。
身近な人に写真を見せ、現状を話し、少しでも知ってもらおうとした。

本業が忙しくなり、ベトナムからも足が遠のいた頃、平和村閉鎖のニュースが届いた。

経験や考えを誰かと共有することの大切さを、今さらながらに思う。
今頃悔いても、手遅れのことが多すぎる。

彼ら彼女らと遊び、一緒にご飯を食べさせ、おむつを替えた。
自分の手にも、感触がたくさん残っていたのに。
そのことは伝えず、写真を見てもらえばわかってもらえると、驕りがあった。
自分の写真にはまだその力はなく、丁寧にキャプションをつけることもしていなかった。

自分にとってこのベトナム訪問は、忘れられない、忘れてはいけない旅なのだ。







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