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《今日の新譜》サックス五重奏「コート」(捕まった)

《今日の新譜》サックス五重奏「コート」(捕まった)
デリケートなタッチ,溢れ出るイマジネーション,強力なスウィング感をどうぞ。
ぜひこちらからYoutubeで全曲視聴してみてください。
参考音源
https://youtu.be/avyesyjZeAc
Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCbc_7CUTWTYOuyu_WQcflxQ
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サックス五重奏「コート」(捕まった)
ファッツ・ウォーラー作曲
Caught
Fats Waller

編成はソプラノ、アルト2本、テナー、バリトンです。
木管五重奏、金管五重奏、クラリネット五重奏版は発売中です。
20世紀初頭を飾ったジャズを、ぜひお楽しみください。
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アトリエ・アニマート楽譜ページ1/3
https://animato-jp.net/rec-band/gakufu.html

「コート」は、アメリカのジャズピアニストで作曲家のFats Wallerによって書かれた楽曲です。
この曲は1955年に発表され、以来、今日でも多くの人々に親しまれています。
逃走しているかのように忙しく刻まれる低音の特徴的な動きの上にジャジーな旋律が進行していく曲です。

作曲者 Fats Waller:
Fats Waller(1904年-1943年)は、アメリカのジャズピアニスト、オルガニスト、シンガーソングライターであり、
スウィングジャズというジャンルの重要な人物の一人です。彼の楽曲は幅広いスタイルで知られています。
ビバップが誕生する前のスウィング期に、ラグタイムの一種、ストライド・ピアノで有名です。

ジャズ・クラブ備え付けのピアノの調律はたいてい狂っているのですが,彼はまずピアノの前に座り,鍵盤をサーッと弾いて
狂っている鍵盤を頭に入れてしまい,本番ではそれらを使わなくてすむキーに移調して弾いたという話も残っています。
彼自身は,カウント・ベーシーもピアノやオルガンを学んだファッツ・ウォーラーThomas Wright(Fats) Waller(1904‐43)に影響をうけたと語っていますが,
デリケートなタッチ,溢れ出るイマジネーション,強力なスウィング感は,以後のピアニストに大きな影響を与えました。
代表作は《アート・テイタム・ソロ傑作集 第1~12集》《アート・テイタム=ベン・ウェブスター・クァルテット》(パブロ),《アート・テイタム傑作集》(MCA)など。

●ファッツ・ウォーラー
ファッツ・ウォーラー(Fats Waller, 1904日-1943)は、アメリカ合衆国のジャズピアニスト・オルガン奏者・歌手・作曲家・作詞家です。
本名はトマス・ライト・ウォーラー(Thomas Wright Waller)であるが、大食漢であり太っていたため、Fats(太っちょ)の愛称で親しまれました。

ニューヨーク生まれ。6歳でピアノを始めました。1922年にオーケー・レコードから発表した、
「Birmingham Blues」と「Muscle Shoals Blues」の2曲入りシングルでデビュー。
その後、ビクタートーキングマシン(後のRCAビクター)での録音を開始しました。

1929年1月、ウォーラーが音楽を担当し、ルイ・アームストロングが出演したミュージカル『Hot Chocolates』が初演されました。
同年、シングル「Ain't Misbehavin'」がヒット。その後も「Honeysuckle Rose」(1934年)等をヒットさせました。
1936年には、ウォーラーが俳優として出演した映画『バーレスクの王様』が公開されました。

1943年、ウォーラーがキャブ・キャロウェイ等と共に出演した映画『ストーミー・ウェザー』公開されました。
同年12月、コンサート・ツアーの途中で肺炎に罹り、列車がミズーリ州カンザスシティに到着した頃に車内で急死しました。

《詳細》
本名はThomas Wright Wallerという。1920年代のジャズシーンにおいては、ピアノ奏者、オルガン奏者、作曲者として大きな存在感を示しており、
その後のスウィング期になると歌手としても成功しました。

父親は教会の牧師であり、母親は教会でオルガンを弾いていたという。Fats Wallerは6歳の時にピアノを始め、学校の楽団でも演奏をしていました。
牧師であった父親は息子に宗教音楽を弾いて欲しかったようですが、Fats Wallerが惹かれたのはポピュラー音楽や
James P. Johnsonが弾くようなストライドピアノでありました。

1918年春に学校を中退したFats Wallerは、様々な日雇いの仕事をしていましたが、ニューヨークのRoosevelt Theatreで開催された
タレントコンテストで「Carolina Shout」を演奏し、優勝しました。
このことがきっかけになり、Fats WallerはJames P. Johnson夫妻と親交を持つようになり、非公式なレッスンを受けるようになりました。

1919年になると15歳になっていたFats Wallerは、Lincoln Theatreでオルガン奏者として雇われることになり
、サイレント映画の為の即興演奏をする中で、オルガンを使ったジャズ演奏の技術を磨いていきました。
若き日のCount Basieにオルガンを教えたのもこの頃の話です。

1920年代初頭にピアノ・ロールの吹き込みを始め、その後、1922年には初のソロ・レコードをリリースしました。
Fats Wallerの手による最初の楽曲である「Squeeze Me」が作曲されたのもこの頃です。
レントパーティでJames P. JohnsonやWillie "The Lion" Smith等とセッションをしていました。

1920年代のFats Wallerは多忙な日々を送っており、多くの歌手の伴奏者として録音に参加しました。
(Alberta Hunter、Sara Martin、Hazel Meyers、Gene Austin、Rosa Henderson、Caroline Johnsonなど)

また、1926年と1927年にはFletcher Henderson楽団と共演しています。

1928年にはJohnny Dunnと演奏した他、Louisiana Sugar Babes名義のレコードではJames P. Johnsonと共演しています。
(James P. Johnsonがピアノを弾き、Fats Wallerがオルガンを弾くという録音でした)

1929年にはMcKinney's Cotton Pickersの録音に参加した他、自身のリーダー名義での録音も行ないました。

1920年代を通して、ほとんど歌うことのなかったFats Wallerであるが、1931年には、自身のピアノで伴奏して歌った「I'm Crazy ABout My Baby」や
「Draggin' My Heart Around」の他、Ted LewisやJack Teagardenとのセッションにおいても、歌手としての頭角を現し始めました。

1931年から1932年にかけてはOtto HardwickとElmer Snowdenのバンドに参加しました。

1932年8月にはSpencer Williamsと共にフランスを訪問しています。

1932年にはラジオ番組への出演で人気が出始めており、このことでFats Wallerに注目したVictorレーベルが複数のレコードを録音する為
にFats Wallerと契約を結びました。
(George Gershwinが開いたパーティでFats Wallerがピアノを弾いた際に居合わせていたVictorレーベルの重役が感銘を受け、契約に繋がりました)

Fats Waller And His Rhythm名義での一連のレコードは、Fats Wallerの陽気な人柄や華麗なストライドピアノの演奏もあって、人気を集めました。

1930年代はニューヨークを拠点としていたFats Wallerですが、1938年7月には渡欧し、同年8月からイギリスでツアー、デンマークも訪問しています。
同年10月にはニューヨークに戻るが、1939年3月から6月にかけて、再びイギリスを訪問しました。

その後も精力的に活動をしていたFats Wallerですが、1943年にミズーリ州カンザスシティの近くを走行中の列車の中で亡くなりました。
死因は肺炎であったようです。

ファッツ・ウォラー【Fats Waller/1904-1943】。近現代ジャズ・ピアノのスタイル完成に絶大な影響を及ぼしたピアニストであり、
数多くのスタンダード曲の作曲家でもあります。また、オルガンをジャズに導入した先駆者でもあります。

ファッツ・ウォラーのスタイルは、James P. Johnsonと同じStride。
ウォラーはジョンソンからピアノの手ほどきを直に受けたキャリアを持ちます。つまり、ウォラーはジョンソンの直弟子です。

ファッツ・ウォラーは、1904年ニューヨーク生まれ。父が運営する教会で6歳からピアノを弾き始め、4年後にオルガンへ転向。
母親から手ほどきを受けたとのこと。14歳の頃には、ハーレムのリンカーン・センターでオルガンを弾き、15歳で最初のラグタイム曲を作ったそうです。

父の反対を押し切ってファッツは15歳でプロの道へ。キャバレーや劇場で演奏をスタート。
1918年にタレント・コンテストで優勝しましたが、その時に彼が弾いた曲はジェームズ・P・ジョンソンの代表曲"California Shout"でした。
ウォラーは、自動ピアノが演奏する"California Shout"を目で見て覚えたそうです。

ウォラーは米国はもちろん欧州までもその名を轟かせます。ピアニストとしての評価はもちろん作曲家としても人気曲を連発。
中にはスタンダードとして現在でも知られている曲もあります。

作曲家ウォラーに関しては面白いエピソードがあります。彼の息子Maurice Wallerは1977年に発表した父ファッツの伝記の中で
以下のようなエピソードを披露しています。

「私が"I Can't Give You Anything But Love,Baby"Jimmy McHugh作曲をピアノを弾いていた時のことです。
2階から父が文句を言う声が聞こえ、降りてきてこう言いました。
『息子よ、その曲を私の耳に入る場所では2度と弾いてくれるな。その曲はわしが書いたのじゃが懐が寂しかった時に売ってしまったものなのだ』と。」

モーリスによると"On The Sunny Side of the Street"Jimmy Mchugh作曲】を聴く度に同じことを言っていたそうです。

事実、ウォラーは1920年代から30年代にかけて自作曲を音楽家仲間に格安で売り渡したことがあったとのこと。
その中には上に挙げたようにスタンダードとして知られている曲もあったそうです。

もうひとつウォラーには驚愕のエピソードがあります。1926年シカゴでのこと。4人組の男がウォラーを襲撃し、クルマに押し込みました。
誘拐されたウォラーが連れて行かれたのはHawthorn Innというホテル。そのホテルの持ち主はなんとシカゴの裏社会を取り仕切るマフィアの大ボス、
アル・カポネでした。背中に銃を突きつけられたウォラーは、ホテルの一室で開かれているパーティー会場に連れていかれピアノの前に。
彼が誘拐されたのは、なんとピアノを弾くためでした。カポネの誕生日パーティーのサプライズ・ゲストとしてウォラーは連れて来られた訳です。
殺されることはないと知ったウォラーは胸をなで下ろしたそうです。

噂によると、ウォラーは3日間パーティーでピアノを弾きつづけ、開放されたときには泥酔状態だった上に疲れ果てていました。
そのかわり、カポネとその仲間のギャングスターたちからたっぷりとチップを受け取り、総額数千ドルになったそうです。
驚愕エピソードです。

ストライド・スタイルのピアニスト、オルガン・ジャズのパイオニア、優秀な作曲家、以上の3つポイントでファッツ・ウォラーは歴史的なジャズメンです。

アトリエ・アニマート
https://animato-jp.net/

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