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どうして、どうして

※画像は生家のオーディオです

前4作のタイトルの法則性に
お気づきだろうか。



「哀しみのR33」は
哀しみのルート16/松任谷由実 から。
「君の青いジムニーで京都へ行こう」は
青い車/スピッツ のサビ部分から。
「ゲーセンと、頭文字Dと、わたし」は
部屋とYシャツと私/平松愛理 から。
「IMPREZA DREAM」は
RASPBERRY DREAM/レベッカ より。



幼少期、一人で過ごすことが
多かったわたしは、
与えられた幼児用玩具
絵本は早々に飽きてしまい、
ニューミュージックのCDやレコード、
大人が読む小難しい本などに
興味を示す子供であった。



記憶の中で一番最初に
自らCDをオーディオに入れ
聞いたのは、母所有の
DA・DI・DA/松任谷由実(1985)と
記憶している。



音楽は、言葉を乗せて
ちょっぴり早く
様々なことを提言してくれた。



どうして「見つめないで」って言うの?
どうして「つきあいきれない」って言うのに
「やっぱり別れない」の?
どうして「二人」は出ていくの?



どうして、どうして、どうして。



周囲の大人に聞いては、
曇る表情、濁す言葉から
「きっとこれは大人に
聞いちゃいけないことなんだ」と
無理やり納得させていた。



今ならわかる。幼い少女に
いくら説明したって解るわけがない。



全部が全部、とは言い切れないが
現代のJ-POPの歌詞は
直接的な表現が多いように感じる。
だが、幼少期わたしが聞いた
年代の音楽は、
ある程度はリスナーの
想像力に委ねられ、
情景が想像つくであろう
体験をしたリスナーには、
より深く心に刺さる
歌詞だったのではないかと思う。



共感を得るにあたって、
多くの言葉を語れば
事象を知ったような気にはなるが、
少しの言葉であろうと
自らの体験と重ねれば、
それ以上言葉はいらない。
むしろ、多くの言葉は
想像力を鈍らせ
趣に欠けるような気さえする。




今スマホをスクロールすれば
大概のことはGoogle先生が
教えてくれる。
そう考えると「その年代」の
圧倒的な経験値が
より文章や音楽に深みを
与えていたのではないだろうか。



よく、「昔の音楽は良かった」論が
展開されることがあるが、
昨今までに語られつくされた
メロディがシンプル、だの
娯楽が少なく
音楽に集中しやすかった、だの
諸説に加え
経験した者ではないと味わえない
感情を呼び起こしてくれるような
趣のある歌詞が多かった、と
そのような実体験を
出来る環境が豊富にあった、と
いうことも付け加えたい。



既出かもしれない、が。



どうしてどうして少女も
泣いたり、笑ったり
怒ったりしながら
大人になり、
あの歌詞の数々が
表していた情景が
身に沁みるようになったものの、
「彼氏」と名のつく対象が
出来た頃には
個人の携帯電話を
所有していた故に、
よく歌詞にある
お互いの自宅へかける電話の
緊張感というやつが
わからないままであることが
非常に残念である。

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