Hello,my friend
※画像は作中のコンパクトカーをAIに描かせたものです
大切な人との別れが辛いのは、
その人のことが好きだからなのか、
その人と過ごしている幸せな自分が
いなくなってしまうからなのか。
幾多の、人と人との別れ話を
聞いてきた自分はふと、考える。
わたしは、こんな人間なので
人との別れよりも
その人のクルマを運転したり、
もう助手席に乗ることはないのだろう、
と考えた時に、言いようのない切なさに
襲われることがあった。
もちろん、勝手に人様のクルマを
運転することはないが
運転が疲れたから代わってほしい、とか
運転手が飲酒した、とか
ささいなキッカケで運転する機会は訪れる。
わたしの感性ではない感性に
選ばれたクルマのステアリングに触れ、
その人の感性を感じ取ったとき、
生育歴や既往歴を含んだ
まるで、「看護サマリー」を
読んでいるような気持ちになる。
19××年、どこそこで出生。
親の職業。こんな育ち方をしました。
なになに社で、なんとかの業務を担当。
結婚はいつ。子供は何人。離婚の有無。
一日の生活リズム。趣味は。好きな物は。
20××年、救急搬送され緊急オペ。など。
クルマはそれらを伝えるわけではないが、
そこに至るまでの「サマリー」は
饒舌に語られるよりも強く、
訴えかけてくるような気がする。
今でも忘れない、20歳の頃。
ある男性とよく会うようになっていた。
天涯孤独で、母親の顔は
あまり記憶にない。
仕事をバリバリこなし、
酒を飲むと陽気になり
基本的にポジティブな雰囲気だが、
どうやらかなり寂しがり屋だったようだ。
そんな彼が乗っていたのが
某多国籍自動車メーカーの
コンパクトカーだった。
ステアを握った時、
ただならぬ違和感を感じた。
所有者とそのクルマを
初めて見た時より、である。
この手のタイプの人は、
失礼な話、もっとギラギラしたクルマに
乗るものだと思っていた。
ただ、アクセルを踏むと
おおよそ外観から検討もつかないような
力強さを発揮した。
スポーツカーは、いかにも
速いですよ、という顔をしており
こちらも心積りが出来るのだが
このコンパクトカーは違った。
平生とした顔をしていながら、
颯爽と駆け抜ける。
「俺、勉強なんかしてないし」
そう言いながら、学年トップの
成績を叩き出すようなクルマだった。
クルマの所有者は
飲むと、必ずこんな話をした。
「幸せは、継続するのが難しい」
「幸せになるために、皆努力している」
「不幸になるのに、努力はいらない」
「不幸で居続けるのは、実は楽」
まるで自己啓発本か、
今ならTwitterでバズるような文言だが、
当時の自分には5割程度しか響かず
年齢を重ねてきた現在、
やや実感できるようになってきた。
恐らく、クルマに感じた違和感は
その人やクルマに対する
違和感ではなくて、
当時の自分の価値観に対する
違和感だったのではないか、と
今になって思う。
「幸福論」を語っていたその男性は、
生存しているものの
その頃の雰囲気は完全に、
失われてしまったようである。
生きとし生けるもの、
形あるものはいつか失われるのが
世の常だということは解っていても、
今生の別れより
ある意味辛く感じるのは、
「戻れない安らぎもある」
現実を、直視しなければいけないからだろうか。
…ちなみに、表題を
Hello Another Way -それぞれの場所-/The brilliant green にしようか、
Hello, my friend/松任谷由実にしようか、
悩んだ。
書いている時の脳内BGMは
楓/スピッツ の
エンドレスリピートだったことを
ここに記しておく。