島日和<ひょうたん島後記>
3-2021
島と隣接した国際村の小高い丘の上に、小さな大学院大学があって、時々、奇妙な市民講座が開かれる。
それは人体の細胞の中にある、小さな分子モーターの話であったり。宇宙の果ての、その向こう側の世界の話であったり。生命体を離れた原子の、意識の存在についての話であったり。
講座が開かれるときには、毎回美しいデザインのチラシが、島の、木々の影や草に隠れた家々の小さなポストにも配られて、そのタイトルに僕の想像力は舞い上がり、いそいそと出かけていくことになる。
その講座はたいてい小さなホールで行われて、大学院で様々な研究をしている教授たちが毎回2,3人専門の講義をして、あいだの休憩時間には、セルフサービスのおいしいお茶とプチケーキが用意される。
講座の後には質問タイムもあって、僕たちの自由奔放な自己満足的質問に、講師たちは戸惑い苦笑しながらも、丁寧に答えてくれる。
僕にとって学問や科学は、分からないことが値打ちなのだ。
分からないから、想像力は夢見ることが出来る。そして、世界は実体より何倍も豊かにふくれ上がる。
分からない世界にどんどん足を踏み入れて、ああでもないこうでもないと空想を巡らせ、うっとりこの世界を生きていけるのだ。
大学院大学には、3階に小さな図書館があって、なんの装飾もない簡素なコンクリート建築の中で、そこだけ重厚かつ濃厚な木製の内装が施されている。
それはまるで人体の内側の粘膜に覆われた甘いヒダヒダのような、薄明りの楽園。
その書棚にぎっしり並べられた本はどれも学術関係の本ばかりで、小説や雑誌は置かれていないけれど、図書カードさえ作れば、誰でも本を家へ持ち帰ることもできる。
その図書館には、閲覧室がない。
あるのは書棚のかげの小さな窓辺に置かれた、一人か二人用の小さな机だけで、ほとんど人けのない図書館でたまに見かける人影は、その机にコンピューターと本を広げてその世界に没頭している学生たち。
そしてある日、その窓辺の机のところで、僕はとても懐かしい人を見つけたのだ。
その机の上には小さな緑色のランプが置いてあって、イスも緑色の二人用のソファーになっている席で、その人はもうこれ以上くずれることはできないというほどだらしなく、ぐにゃりとソファーに腰かけて、机の上の本に覆いかぶさるようにして必死で覗き込んでいる。
何だか、とびきり変わった人だなあと思って、何気なく見ていると、僕は心臓がどきんとした。
絶対そうだ。ゲルダおばあさんに違いない。
もうだいぶ前に、島の小さな家から突然いなくなってしまった人。
こんな近くにいたんだ。ここで何をしているのだろう。
「あのう、ゲルダおばあさん?」
彼女は顔を上げて、怪訝な目をして、声をかけた僕をみつめた。
「ああ、あなた。こんな所で何をしているの?」
「僕は、ちょっと、探しものですよ。あなたこそどうしてここに?」
「私も、探しもの。本の中に手掛かりがあるんじゃないかと思ってね」
そう言って、彼女は僕にソファーを勧めた。
僕たちは、緑色の小さなソファーに並んで座って、日陰の庭を眺めながら話をした。
「カーイおじいさんを探しにね、旅に出てみたのよ。北極圏にも、星の裏側の町にも、ラピュタの村にも行ってみたけど、何の確信も得られなくて。この図書館を思い出して、戻ってきたの」
彼女はそう言いながら、僕にぐっと近づいて、声をひそめた。
「この図書館には、何か、とてつもない世界の秘密が書かれている本があるような感じがしない?」
そうなのだ。僕もそんな感じがして、時々ここにやって来る。
「私はね、あの車で生活しながら、いろんな所へ行っているのよ。でも今は、この図書館のあたりにとても強い磁場があってね、動けないの」
日陰の庭の隅に、可愛らしい水色のワンボックスカーが止まっている。
その車に斜めからうっすら夕日が差し込んだその時、僕はその中に、何か、微かな人の気配を感じた。
風が吹いて、急に外が明るくなって、ふと空を見上げると、たくさんの虹が出ていた。
それはお互いの磁力に連動するように、ゆったりと動きながら、空一面を覆っていった。