11-2024 池田良 今朝、目が覚めると、体の表面全体に白く細かい模様がうっすら浮き上がっていた。 まるで体全体にかすかなさざ波が立っているようだ。 それは、朝日をななめに受けて、繊細なちりめん紙のように美しい。 さわるとさわさわと指に当たって、秋の乾燥した空気を思わせる。 ― ことのほか蒸し暑かった夏の、ねっとりとした肌は、もう過去のものなのだ ー 空気もひんやりとして心地いい。 僕は朝、わざと肌の出るシャツを着て空気の涼しさを味わう。 まるで、冷た
10-2024 池田良 ・・・ あなたは遠い昔僕が夢見たつむじ風。 僕たちの愛の消費期限はたった3年だったけど、それはもう、人に話したら大笑いされそうなくらいのシッチャカメッチャッカの異世界奇譚。あなたは一族恐怖症で電話魔で、僕は獰猛なワガママで、僕たちはいつもケンカばかりしてキスばかりしていた。もう本当に、開き直りの世間離れ。地下鉄の中でも、レストランの中でも、銀座4丁目の交差点でも。 けれど、消費期限のその日はきっちりと正確にやって来て、二人の愛はがち
9-2024 池田良 バックグラウンドミュージックがあるだけで、世界は変わる。 「そのたたずまい、そのありよう、その匂い、その意味さえも。 それは、映画やドラマの中の効果だけではない。この地上で暮らし生きている人々の気分をガラっと変える力だってあるはずだ。やさしく温かく心を包み込むようなBGMが流れていれば、誰もが思いやりにあふれた公平な人になる。人の心が変われば行動も変わる。それだけで、貧困も飢餓も戦争も進駐もなくなるはずなのだ。」 音楽を聴きながら
8-2024 池田良 天空遥か、遠く天の川から降り注ぐキラキラの雨に濡れて、木々が異様なほど輝き艶めき、恐いほどに緑が勢いを増し生い茂り、島中のすべてのものを覆い隠そうとする。 「ちょっと、島が熱帯雨林化してますねえ」 気象台の予報官はそう言って、島中をあちこち歩き回っている。 リュックを背負って、カメラを2台肩にぶら下げて、左手には小さな黒い傘をさして。 「さあ、そろそろお昼だから、一度気象台に帰ろうかな。東屋でお弁当を食べるには暑すぎますもの。この
7-2024 池田良 夏休み。 白い雲が、いくつも低く空を流れていく日。白い帆のヨットが、いくつも海に浮かんでいる日。 半島の付け根の終着ステーション、アキヤゲイトウェイ駅には、都会からたくさんの観光客がやって来て、海岸行のバスも増発され、上を下への大騒ぎ。昔流行った懐かしい人形劇の駅メロも喧騒の中にかき消されて、人々の夏休み気分は最高潮。 けれど、そんなに多くの観光客も、その先わずか一時間、僕たちの島にまではやってこない。 決して。 島の海辺は、
6-2024 池田良 六月の梅雨の晴れ間の美しさ。 一年中で一番力強い太陽の光は、ギラギラとすべてのものを、生臭いほどに輝かせる。 誰かの死を見送った日の午後に、ひとりとぼとぼと家へと帰った道の、あの風景のような艶めかしさ。 夏至祭りの日、島中の家々では、それぞれ工夫を凝らしたしつらえをして人々を迎え入れる。 小さな三角の旗が、風にヒラヒラとはためいているのが、オープンハウスやオープンガーデンのしるし。 参加者たちは、家や庭を自分の趣味やセンスをこれでも
5-2024 池田良 「ヘンゼルったら、お菓子しか食べないの」 あの日、バス停で出会ったグレーテルはそう言って、自嘲的に笑った。 「彼は一日中家でお菓子ばかり作っているの。だからうちは、3食お菓子」 グレーテルとは、もうずいぶん会っていなかった。もしかしたら、何年も。 「体に悪いわよねえ。でも、お菓子が精神安定剤みたいなものだから」 朝の、涼しい風が吹いていて、とても気持ちがいい。 遠くで、美しい鳥の声がする。 「僕は、朝は御飯にお茶をかけて食べるよ。
4-2024 池田良 春になると、色々な種類の柑橘類が店頭に並ぶので、それをひとつずつ買ってきて、窓辺に並べて眺めている。 その中には、うっとりするほど美しい味のものがある。 それは、甘いとか美味しいとかいう範疇ではなくて、まさに美しい味としか表現しようのない味。 花が咲いて実になる果物は、どれも美しい味になって当然のような気もするけれど。 窓辺に座って、なかなかむけないブラッドオレンジの皮を無理やりむいて、指を血まみれ色にしてゆっくり丁寧に食べている
3-2024 池田良 窓辺いっぱいに、様々なプリズムが吊り下げられて、キラキラ輝いている。 部屋の中は虹の洪水。木漏れ日のように揺れて降り注ぐ、虹のシャワー。 「素晴らしいでしょ、しかもデジタルアートじゃない。だから光の音が聞こえますよ」 そう言って、くるりさんは笑った。 僕には光の音は聞こえないけれど。でも、その、虹の輝きのゆらめきが、音楽のようにリズムを刻んでいる。 僕も部屋の天井に好きなものを色々吊り下げているが、こんなに力強い雰囲気を作り上げては
2-2024 池田良 神様のお引越しの日。 神官たちは、声で包む。見えない(見てはいけない)神様を。 この世界は思い込みで回っているらしいから、宗教は究極のエンターテインメント。 島のはじっこ。半島とつながるあたりにあるソレイユの丘は、なだらかで遮るもののない広い大草原で、いつも四方八方から風が吹き抜け、四季折々の花が咲き乱れている。 今はその一面が水仙の花に埋めつくされ、甘い匂いに僕たちはうっとりと呆然自失。 そんな丘に縄文遺跡の痕跡が発見されたのは
1-2024 池田良 宝物の隠し場所は美しい所でなくてはいけない。 でなければ、どこに隠したのか、分からなくなってしまうから。 僕は今までに、どこに隠したのか、分からなくなってしまった宝物が色々ある。 その中には、心無い人がうっかり持って行ってしまったものもあるけれど、ほとんどは、僕が自分で隠した場所が分からなくなっているのだ。 宝物はどれも、僕にとってはとても大切なものなので、僕は、この広い地球の上でぽつんとひとり、途方に暮れて立ちつくす。 まれに
12-2023 池田良 12月になると、その寒さと暗さに正比例するように、皆が明かりマニアになる。 薄暗くなると草の中に埋もれた家々に明かりが灯り、そのそれぞれの家の存在が明らかになるこの島でも、人々がテラスや庭にも可愛らしい明りを色々飾って楽しんでいる。 冬の乾燥した空気は透き通っているから、ことさら明かりをキラキラと輝かせる。 入り江に泊まっているクルーズ船も、この季節は色とりどりの明かりを身にまとって、いつもよりも華やかなたたずまい。 「夢のよ
11-2023 池田良 ここはどこなのだろう。 大都会の真ん中の、きらびやかな人々が行きかう雑踏から、ほんの少しずれた横道の突き当り。 道行く人も少ない通りにぼうっと佇むそのビルの入り口を、僕は見つけた。 新聞の片隅に小さく紹介されていた、古いビルの中のその店。「地球儀屋」 その名前と、なんだかよく分からない紹介文に好奇心を刺激されて、僕はそこに書いてあった住所を頼りに店を探し歩いた。 都会の真ん中の、大きな駅のそばの、有名なビルの裏と書いてあるんだから
10-2023 池田良 「君って、呼吸がかなり浅いですよねえ」 そう言ってキツネは、斜めに僕を見て薄ら笑い。 十三夜のお月見の宴に、僕は招待されて、キツネの家へと出かけて行った。 手土産は、酔えないクラフトビール。 巣穴の入り口のような野趣のある可愛らしい玄関から、くねくねと長く続く外廊下には、おもむきのある屋根があって、両側には朱塗りの低い欄干も付いている。 「以前に伺った時は、妹さんのお嫁入りの時だったかしら。もう何年も昔」 僕がそう言うと、キ
9-2023 池田良 もう夏も終わりだというのに、まだ空気はもわもわと暑くて、台風が送り込む大量の水蒸気が島を包み込み、その暑い湯気の中で皆は声もなくひっそりと呼吸を繰り返す。 遥か南方の海上に渦を巻く台風の匂いがもうかなり強く漂っている。 僕は乾燥に弱くて、冬になると息をするのもつらくなある時もあり、湿度百パーセントの時は、まるでキノコか苔のようにうっとりと夢見心地になるのだが、いくらおしめりな日が好きと言っても限度というものがあるもの。 こんなにぐし
8-2023 池田良 ネコの家の一番奥、日の当たらない小さな書斎の棚の上に、古びたバンドネオンが、ひっそりと置かれてある。 ネコは昔、バンドネオン奏者だったそうで、音楽家たちと楽団を組んでは、街から街へと汽車を乗り継いで、旅をしていたそうだ。 「貧しい楽団だったけれど、楽しい旅の日々でしたよ。いろいろな所で演奏してね。港町の大きなデパートの片隅の小さな会場とか、雪国の古い造り酒屋の主人が始めた、ハイカラなビアレストランとか、セロ弾きの少年紳士と仲良くな