島日和<ひょうたん島後記>

      10-2022   池田良

気が付かないうちに、体の中では色々なことが起こっていたりする。

エンピツを持つ指がギシギシと音を立てていたり、耳の中で言葉がこだまのように響き合っていたり、目のはじで風景がキラキラとまぶしく揺らめいていたり、寝返りを打つと夜がぐるりと回転したり。
そしてそれは知らないうちに、またひっそりと消えていたりもする。
これは何なのだろう。
この世界の時間の、うすら笑いや思い出の仕業?それとも細胞の見る夢?

ソファーの上でネコが気持ちよさそうに大きく伸びをする。
ネコは僕よりもたぶん、ずっと敏感な生き物だから、こんなふうな体の日々の変化にもっと悩まされて生きているのに違いない。それと同時に体の日々の歓びにも、ずっと敏感なのだろうけれど。

久しぶりに都会に出かけて、疲れ果てて帰ってきた電車の中で、ふと隣の席に座った人に妙な気配を感じて、ちらりと見た腕になんとなく見おぼえがあるような気がした。
それでもそのまま、しばらく電車に揺られていると、その人が僕の頭を撫でるようにコツコツとする。
びっくりして僕が見返ると、その人は確かに僕の知っている人なのだけれど、誰なのか、思い出せない。
「お久しぶりです。さっき金魚の展覧会に行っていたでしょ。あの会場であなたを見かけて、それからずっと後をつけていたのですよ。ふふふ」
そう言って、その人はとても楽しそうに笑った。
「私はね、そんないたずらをするのが大好きなのです」
ああ確かに、この人を僕は知っている。
昔、一緒に旅をして、楽しく仕事をしていた人人かもしれない。
「金魚の展覧会はいかがでしたか?」

そう聞かれて、ぼくはちょっとびっくりした。
以前は、ただ自分の意見を批評家のように語り続けるだけの人だったはずだから。人の感想などたずねたりすることもなく。
「素晴らしかったです。僕が思っていたのと全然違っていて。僕はよく知らないで行ったのです。ただ美しい金魚が美しい水槽の中でたくさん泳いているようなイメージだけで」

入り口のあたりは確かにそうだったのだ。けれど、中に進むにしたがって、金魚の群れは音を立ててぶつかり合う金属になり、無数に舞い踊る紙吹雪になり・・・、そして圧巻は、CGの巨大な金魚で、それが何匹も疾走する大空間の中で圧倒され、息を飲み、ただなすすべもなく身をさらしていた時の快感。

「そうですねえ。でもあれはそうじゃなくてね」
ーそうじゃなくてねー そう言われたとたん、ああやっぱり始まるんだ、昔とちっとも変わらない、と僕は可笑しくなって、くすっと笑ってしまった。
「えっ何です?何か可笑しいですか?」
僕はちょっとしまったと思って、窓の外を振り向いたりしてごまかす。
その人は、あまり気にする様子もなく話し続ける。
「金魚は特殊な魚ですよ。人が観賞用のためだけに色々な生命操作をして作り上げてきたのだから。美しくも醜くも過剰な形にしてね。そういう意味ではちょっと、不気味な生命体ですよ」
「・・・あっ次、もう僕の降りる駅です。アキヤゲイトウェイ」
「アキヤゲイトウェイ? そんな名前の駅じゃなかったなあ。あなたはそんな名前の駅で降りたりしていませんでしたよ」
「でも、僕はもう下りないと」
「じゃあ私はもうちょっと先へ行ってみようかしら」
「では、さようなら。また逢いましょう」
「ええきっと。また逢いましょう」

そして僕は、大急ぎでホームに降り立った。
アキヤゲイトウェイ駅は、近頃名前が替わったのだ。
でも僕は、そのことを告げる気になれなかった。
だって今日はもう、とても疲れ果てていたから。とても疲れ果てて、人の心の重さを受け止めるだけの度量が、もうなかったから。

駅を出てバスに乗り、海沿いの道を揺られて帰る。
海は目を開けていられないほどべっとりと眩しく輝き、体の中の感覚をぎゅっと押しつぶして、苦くどこか懐かしい味の糸を紡ぎだしてきたりする。
目をつむると体は海の匂いをかぎながら、ゆらりゆらりと揺れて、都会でこびり付いた疲労を少しづつほどいていく。
ゆらりゆらりと夢の中を旅するように。

こうしてやがて、僕の筋肉もやわらかく甘くなっていくのだろう。そして皮膚は段々薄くなって、細かく淡い魚の鱗模様が一面に広がり、いつかとろりと透き通って、魚類の時代に戻っていくみたいだ。
ゆっくりゆっくり時間をかけて。少しづつ少しづつ。バレないように。うっとりと確実に、変化していく。
これって、時間の生命操作?

海も空もにこにこと、きらめいている。